引き下げるか、葉子を自分まで引き上げるよりしかたがなかった。夫人の葉子に対する仕打ちは戸板をかえすように違って来た。葉子は知らん顔をして夫人のするがままに任せていた。葉子はもとより夫人のあわてたこの処置が夫人には致命的な不利益であり、自分には都合のいい仕合わせであるのを知っていたからだ。案のじょう、田川夫人のこの譲歩は、夫人に何らかの同情なり尊敬なりが加えられる結果とならなかったばかりでなく、その勢力はますます下り坂になって、葉子はいつのまにか田川夫人と対等で物をいい合っても少しも不思議とは思わせないほどの高みに自分を持ち上げてしまっていた。落ち目になった夫人は年がいもなくしどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]になっていた。恐ろしいほどやさしく親切に葉子をあしらうかと思えば、皮肉らしくばか丁寧に物をいいかけたり、あるいは突然路傍の人に対するようなよそよそしさを装って見せたりした。死にかけた蛇《へび》ののたうち回るのを見やる蛇使いのように、葉子は冷ややかにあざ笑いながら、夫人の心の葛藤《かっとう》を見やっていた。
 単調な船旅にあき果てて、したたか刺激に飢えた男の群れは、この二人《ふたり》の女性を中心にして知らず知らず渦巻《うずま》きのようにめぐっていた。田川夫人と葉子との暗闘は表面には少しも目に立たないで戦われていたのだけれども、それが男たちに自然に刺激を与えないではおかなかった。平らな水に偶然落ちて来た微風のひき起こす小さな波紋ほどの変化でも、船の中では一《ひと》かどの事件だった。男たちはなぜともなく一種の緊張と興味とを感ずるように見えた。
 田川夫人は微妙な女の本能と直覚とで、じりじりと葉子の心のすみずみを探り回しているようだったが、ついにここぞという急所をつかんだらしく見えた。それまで事務長に対して見下したような丁寧さを見せていた夫人は、見る見る態度を変えて、食卓でも二人は、席が隣り合っているからという以上な親しげな会話を取りかわすようになった。田川博士までが夫人の意を迎えて、何かにつけて事務長の室《へや》に繁《しげ》く出入りするばかりか、事務長はたいていの夜は田川夫妻の部屋《へや》に呼び迎えられた。田川博士はもとより船の正客である。それをそらすような事務長ではない。倉地は船医の興録《こうろく》までを手伝わせて、田川夫妻の旅情を慰めるように振る舞った。田川博士の船室には夜おそくまで灯《ひ》がかがやいて、夫人の興ありげに高く笑う声が室外まで聞こえる事が珍しくなかった。
 葉子は田川夫人のこんな仕打ちを受けても、心の中で冷笑《あざわら》っているのみだった。すでに自分が勝ち味になっているという自覚は、葉子に反動的な寛大な心を与えて、夫人が事務長を※[#「※」は「てへんに虜」、132−2]《とりこ》にしようとしている事などはてんで問題にはしまいとした。夫人はよけいな見当違いをして、痛くもない腹を探っている、事務長がどうしたというのだ。母の胎《はら》を出るとそのままなんの訓練も受けずに育ち上がったようなぶしつけ[#「ぶしつけ」に傍点]な、動物性の勝った、どんな事をして来たのか、どんな事をするのかわからないようなたかが事務長になんの興味があるものか。あんな人間に気を引かれるくらいなら、自分はとうに喜んで木村の愛になずいているのだ。見当違いもいいかげんにするがいい。そう歯がみをしたいくらいな気分で思った。
 ある夕方葉子はいつものとおり散歩しようと甲板《かんぱん》に出て見ると、はるか遠い手欄《てすり》の所に岡がたった一人《ひとり》しょんぼりとよりかかって、海を見入っていた。葉子はいたずら者らしくそっ[#「そっ」に傍点]と足音を盗んで、忍び忍び近づいて、いきなり岡と肩をすり合わせるようにして立った。岡は不意に人が現われたので非常に驚いたふうで、顔をそむけてその場を立ち去ろうとするのを、葉子は否応《いやおう》なしに手を握って引き留めた。岡が逃げ隠れようとするのも道理、その顔には涙のあとがまざまざと残っていた。少年から青年になったばかりのような、内気らしい、小柄《こがら》な岡の姿は、何もかも荒々しい船の中ではことさらデリケートな可憐《かれん》なものに見えた。葉子はいたずらばかりでなく、この青年に一種の淡々《あわあわ》しい愛を覚えた。
 「何を泣いてらしったの」
 小首を存分傾けて、少女が少女に物を尋ねるように、肩に手を置きそえながら聞いてみた。
 「僕……泣いていやしません」
 岡は両方の頬《ほお》を紅《あか》く彩《いろど》って、こういいながらくるり[#「くるり」に傍点]とからだをそっぽう[#「そっぽう」に傍点]に向け換えようとした。それがどうしても少女のようなしぐさだった。抱きしめてやりたいようなその肉体と、肉体につつまれた心。葉子はさ
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