やつられるのが、事務長の人となりによくそぐって聞こえる。葉子はそんな事を思いながら事務長の言葉を聞き終わると、始めてはっきり[#「はっきり」に傍点]目がさめたように思った。そして簡単に、
 「いゝえ」
と答えながら上目《うわめ》づかいに、夢の中からでも人を見るようにうっとり[#「うっとり」に傍点]と事務長のしぶとそうな顔を見やった。そしてそのまま黙っていた。
 事務長は例の insolent な目つきで葉子を一目に見くるめながら、
 「若い方《かた》は世話が焼ける……さあ行きましょう」
 と強い語調でいって、からからと傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に笑いながら葉子をせき立てた。海の波の荒涼たるおめきの中に聞くこの笑い声は diabolic なものだった。「若い方《かた》」……老成ぶった事をいうと葉子は思ったけれども、しかし事務長にはそんな事をいう権利でもあるかのように葉子は皮肉な竹篦返《しっぺがえ》しもせずに、おとなしくショールを拾い上げて事務長のいうままにそのあとに続こうとして驚いた。ところが長い間そこにたたずんでいたものと見えて、磁石《じしゃく》で吸い付けられたように、両足は固く重くなって一|寸《すん》も動きそうにはなかった。寒気のために感覚の痲痺《まひ》しかかった膝《ひざ》の関節はしいて曲げようとすると、筋を絶《た》つほどの痛みを覚えた。不用意に歩き出そうとした葉子は、思わずのめり出さした上体をからく後ろにささえて、情けなげに立ちすくみながら、
 「ま、ちょっと」
 と呼びかけた。事務長の後ろに続こうとした岡と呼ばれた青年はこれを聞くといち早く足を止めて葉子のほうを振り向いた。
 「始めてお知り合いになったばかりですのに、すぐお心安だてをしてほんとうになんでございますが、ちょっとお肩を貸していただけませんでしょうか。なんですか足の先が凍ったようになってしまって……」
 と葉子は美しく顔をしかめて見せた。岡はそれらの言葉が拳《こぶし》となって続けさまに胸を打つとでもいったように、しばらくの間どぎまぎ躊躇《ちゅうちょ》していたが、やがて思い切ったふうで、黙ったまま引き返して来た。身のたけも肩幅も葉子とそう違わないほどな華車《きゃしゃ》なからだをわなわなと震わせているのが、肩に手をかけないうちからよく知れた。事務長は振り向きもしないで、靴《くつ》のかかとをこつこつと鳴らしながら早二三|間《げん》のかなたに遠ざかっていた。
 鋭敏な馬の皮膚のようにだちだちと震える青年の肩におぶいかかりながら、葉子は黒い大きな事務長の後ろ姿を仇《あだ》かたきでもあるかのように鋭く見つめてそろそろと歩いた。西洋酒の芳醇《ほうじゅん》な甘い酒の香が、まだ酔いからさめきらない事務長の身のまわりを毒々しい靄《もや》となって取り巻いていた。放縦という事務長の心《しん》の臓は、今不用心に開かれている。あの無頓着《むとんじゃく》そうな肩のゆすりの陰にすさまじい desire の火が激しく燃えているはずである。葉子は禁断の木の実を始めてくいかいだ原人のような渇欲をわれにもなくあおりたてて、事務長の心の裏をひっくり返して縫い目を見窮めようとばかりしていた。おまけに青年の肩に置いた葉子の手は、華車《きゃしゃ》とはいいながら、男性的な強い弾力を持つ筋肉の震えをまざまざと感ずるので、これらの二人《ふたり》の男が与える奇怪な刺激はほしいままにからまりあって、恐ろしい心を葉子に起こさせた。木村……何をうるさい、よけいな事はいわずと黙って見ているがいい。心の中をひらめき過ぎる断片的な影を葉子は枯れ葉のように払いのけながら、目の前に見る蠱惑《こわく》におぼれて行こうとのみした。口から喉《のど》はあえぎたいほどにひからびて、岡の肩に乗せた手は、生理的な作用から冷たく堅くなっていた。そして熱をこめてうるんだ目を見張って、事務長の後ろ姿ばかりを見つめながら、五体はふらふらとたわいもなく岡のほうによりそった。吐き出す気息《いき》は燃え立って岡の横顔をなでた。事務長は油断なく角燈で左右を照らしながら甲板の整頓《せいとん》に気を配って歩いている。
 葉子はいたわるように岡の耳に口をよせて、
 「あなたはどちらまで」
 と聞いてみた。その声はいつものように澄んではいなかった。そして気を許した女からばかり聞かれるような甘たるい親しさがこもっていた。岡の肩は感激のために一入《ひとしお》震えた。頓《とみ》には返事もし得ないでいたようだったが、やがて臆病《おくびょう》そうに、
 「あなたは」
 とだけ聞き返して、熱心に葉子の返事を待つらしかった。
 「シカゴまで参るつもりですの」
 「僕も……わたしもそうです」
 岡は待ち設けたように声を震わしながらきっぱり[#「きっぱり」に傍点]と答えた。
 「シカ
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