しい圧迫を打ち破ろうと思ってもそれができなかった。今何か物をいったらきっとひどい不自然な物のいいかたになるに決まっている。そうかといってその船員には無頓着《むとんじゃく》にもう一度前のような幻想に身を任せようとしてもだめだった。神経が急にざわざわと騒ぎ立って、ぼーっと煙《けぶ》った霧雨《きりさめ》のかなたさえ見とおせそうに目がはっきり[#「はっきり」に傍点]して、先ほどのおっかぶさるような暗愁は、いつのまにかはかない出来心のしわざとしか考えられなかった。その船員は傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に衣嚢《かくし》の中から何か書いた物を取り出して、それを鉛筆でチェックしながら、時々思い出したように顔を引いて眉《まゆ》をしかめながら、襟《えり》の折り返しについたしみを、親指の爪《つめ》でごしごしと削ってははじいていた。
葉子の神経はそこにいたたまれないほどちかちかと激しく働き出した。自分と自分との間にのそのそと遠慮もなく大股《おおまた》ではいり込んで来る邪魔者でも避けるように、その船員から遠ざかろうとして、つと手欄《てすり》から離れて自分の船室のほうに階子段《はしごだん》を降りて行こうとした。
「どこにおいでです」
後ろから、葉子の頭から爪先《つまさき》までを小さなものででもあるように、一目に籠《こ》めて見やりながら、その船員はこう尋ねた。葉子は、
「船室まで参りますの」
と答えないわけには行かなかった。その声は葉子の目論見《もくろみ》に反して恐ろしくしとやかな響きを立てていた。するとその男は大股《おおまた》で葉子とすれすれになるまで近づいて来て、
「船室《カビン》ならば永田《ながた》さんからのお話もありましたし、おひとり旅のようでしたから、医務室のわきに移しておきました。御覧になった前の部屋《へや》より少し窮屈かもしれませんが、何かに御便利ですよ。御案内しましょう」
といいながら葉子をすり抜けて先に立った。何か芳醇《ほうじゅん》な酒のしみ[#「しみ」に傍点]と葉巻煙草《シガー》とのにおいが、この男固有の膚のにおいででもあるように強く葉子の鼻をかすめた。葉子は、どしん[#「どしん」に傍点]どしんと狭い階子段《はしごだん》を踏みしめながら降りて行くその男の太い首から広い肩のあたりをじっ[#「じっ」に傍点]と見やりながらそのあとに続いた。
二十四五脚の椅子《いす》が食卓に背を向けてずらっ[#「ずらっ」に傍点]とならべてある食堂の中ほどから、横丁《よこちょう》のような暗い廊下をちょっとはいると、右の戸に「医務室」と書いた頑丈《がんじょう》な真鍮《しんちゅう》の札がかかっていて、その向かいの左の戸には「No.12 早月葉子殿」と白墨で書いた漆塗《うるしぬ》りの札が下がっていた。船員はつか[#「つか」に傍点]つかとそこにはいって、いきなり勢いよく医務室の戸をノックすると、高いダブル・カラーの前だけをはずして、上着を脱ぎ捨てた船医らしい男が、あたふたと細長いなま白い顔を突き出したが、そこに葉子が立っているのを目ざとく見て取って、あわてて首を引っ込めてしまった。船員は大きなはばかりのない声で、
「おい十二番はすっかり[#「すっかり」に傍点]掃除《そうじ》ができたろうね」
というと、医務室の中からは女のような声で、
「さしておきましたよ。きれいになってるはずですが、御覧なすってください。わたしは今ちょっと」
と船医は姿を見せずに答えた。
「こりゃいったい船医の私室《プライベート》なんですが、あなたのためにお明け申すっていってくれたもんですから、ボーイに掃除するようにいいつけておきましたんです。ど、きれいになっとるかしらん」
船員はそうつぶやきながら戸をあけて一わたり中を見回した。
「むゝ、いいようです」
そして道を開いて、衣嚢《かくし》から「日本郵船会社|絵島丸《えじままる》事務長勲六等|倉地三吉《くらちさんきち》」と書いた大きな名刺を出して葉子に渡しながら、
「わたしが事務長をしとります。御用があったらなんでもどうか」
葉子はまた黙ったままうなずいてその大きな名刺を手に受けた。そして自分の部屋《へや》ときめられたその部屋の高い閾《しきい》を越えようとすると、
「事務長さんはそこでしたか」
と尋ねながら田川博士がその夫人と打ち連れて廊下の中に立ち現われた。事務長が帽子を取って挨拶《あいさつ》しようとしている間に、洋装の田川夫人は葉子を目ざして、スカーツの絹ずれの音を立てながらつか[#「つか」に傍点]つかと寄って来て眼鏡《めがね》の奥から小さく光る目でじろり[#「じろり」に傍点]と見やりながら、
「五十川さんがうわさしていらしった方はあなたね。なんとかおっしゃいましたねお名は」
といった。この「なんとかおっしゃ
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