れなかった。ある時聖書の講義の講座でそっ[#「そっ」に傍点]と机の下で仕事を続けていると、運悪くも教師に見つけられた。教師はしきりにその用途を問いただしたが、恥じやすい乙女心《おとめごころ》にどうしてこの夢よりもはかない目論見《もくろみ》を白状する事ができよう。教師はその帯の色合いから推《お》して、それは男向きの品物に違いないと決めてしまった。そして葉子の心は早熟の恋を追うものだと断定した。そして恋というものを生来知らぬげな四十五六の醜い容貌《ようぼう》の舎監は、葉子を監禁同様にして置いて、暇さえあればその帯の持ち主たるべき人の名を迫り問うた。
 葉子はふと心の目を開いた。そしてその心はそれ以来峰から峰を飛んだ。十五の春には葉子はもう十も年上な立派な恋人を持っていた。葉子はその青年を思うさま翻弄《ほんろう》した。青年はまもなく自殺同様な死に方をした。一度生血の味をしめた虎《とら》の子のような渇欲が葉子の心を打ちのめすようになったのはそれからの事である。
 「古藤さん愛と貞とはあなたに願いますわ。だれがどんな事をいおうと、赤坂学院には入れないでくださいまし。私きのう田島《たじま》さんの塾《じゅく》に行って、田島さんにお会い申してよくお頼みして来ましたから、少し片付いたらはばかりさまですがあなた御自身で二人《ふたり》を連れていらしってください。愛さんも貞ちゃんもわかりましたろう。田島さんの塾にはいるとね、ねえさんと一緒にいた時のようなわけには行きませんよ……」
 「ねえさんてば……自分でばかり物をおっしゃって」
 といきなり[#「いきなり」に傍点]恨めしそうに、貞世は姉の膝《ひざ》をゆすりながらその言葉をさえぎった。
 「さっきからなんど書いたかわからないのに平気でほんとにひどいわ」
 一座の人々から妙な子だというふうにながめられているのにも頓着《とんじゃく》なく、貞世は姉のほうに向いて膝の上にしなだれかかりながら、姉の左手を長い袖《そで》の下に入れて、その手のひらに食指で仮名を一字ずつ書いて手のひらで拭《ふ》き消すようにした。葉子は黙って、書いては消し書いては消しする字をたどって見ると、
 「ネーサマハイイコダカラ『アメリカ』ニイツテハイケマセンヨヨヨヨ」
 と読まれた。葉子の胸はわれ知らず熱くなったが、しいて笑いにまぎらしながら、
 「まあ聞きわけのない子だこと、し
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