た誘惑を古藤に感じた。童貞で無経験で恋の戯れにはなんのおもしろみもなさそうな古藤、木村に対してといわず、友だちに対して堅苦しい義務観念の強い古藤、そういう男に対して葉子は今までなんの興味をも感じなかったばかりか、働きのない没情漢《わからずや》と見限って、口先ばかりで人間並みのあしらいをしていたのだ。しかしその晩葉子はこの少年のような心を持って肉の熟した古藤に罪を犯させて見たくってたまらなくなった。一夜のうちに木村とは顔も合わせる事のできない人間にして見たくってたまらなくなった。古藤の童貞を破る手を他の女に任せるのがねたましくてたまらなくなった。幾枚も皮をかぶった古藤の心のどん底に隠れている欲念を葉子の蠱惑力《チャーム》で掘り起こして見たくってたまらなくなった。
 気取《けど》られない範囲で葉子があらん限りの謎《なぞ》を与えたにもかかわらず、古藤が堅くなってしまってそれに応ずるけしきのないのを見ると葉子はますますいらだった。そしてその晩は腹が痛んでどうしても東京に帰れないから、いやでも横浜に宿《とま》ってくれといい出した。しかし古藤は頑《がん》としてきかなかった。そして自分で出かけて行って、品《しな》もあろう事かまっ赤《か》な毛布《もうふ》を一枚買って帰って来た。葉子はとうとう我《が》を折って最終列車で東京に帰る事にした。
 一等の客車には二人《ふたり》のほかに乗客はなかった。葉子はふとした出来心から古藤をおとしいれようとした目論見《もくろみ》に失敗して、自分の征服力に対するかすかな失望と、存分の不快とを感じていた。客車の中ではまたいろいろと話そうといって置きながら、汽車が動き出すとすぐ、古藤の膝《ひざ》のそばで毛布にくるまったまま新橋まで寝通してしまった。
 新橋に着いてから古藤が船の切符を葉子に渡して人力車を二台|傭《やと》って、その一つに乗ると、葉子はそれにかけよって懐中から取り出した紙入れを古藤の膝にほうり出して、左の鬢《びん》をやさしくかき上げながら、
 「きょうのお立て替えをどうぞその中から……あすはきっといらしってくださいましね……お待ち申しますことよ……さようなら」
 といって自分ももう一つの車に乗った。葉子の紙入れの中には正金銀行から受け取った五十円金貨八枚がはいっている。そして葉子は古藤がそれをくずして立て替えを取る気づかいのないのを承知していた。
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