らないでしょう。……でも大丈夫そんな事はないとは思いますけれども、さきざきまでの考えをつけておくのが旅にあればいちばん大事ですもの」
木村はなおも握った手を鼻の下に置いたなり、なんにもいわず、身動きもせず考え込んでいた。
葉子は術《すべ》なさそうに木村のその顔をおもしろく思いながらまじ[#「まじ」に傍点]まじと見やっていた。
木村はふと顔を上げてしげしげと葉子を見た。何かそこに字でも書いてありはしないかとそれを読むように。そして黙ったまま深々と嘆息した。
「葉子さん。わたしは何から何まであなたを信じているのがいい事なのでしょうか。あなたの身のためばかり思ってもいうほうがいいかとも思うんですが……」
「ではおっしゃってくださいましななんでも」
葉子の口は少し親しみをこめて冗談らしく答えていたが、その目からは木村を黙らせるだけの光が射られていた。軽はずみな事をいやしくもいってみるがいい、頭を下げさせないでは置かないから。そうその目はたしかにいっていた。
木村は思わず自分の目をたじろがして黙ってしまった。葉子は片意地にも目で続けさまに木村の顔をむちうった。木村はその笞《しもと》の一つ一つを感ずるようにどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]した。
「さ、おっしゃってくださいまし……さ」
葉子はその言葉にはどこまでも好意と信頼とをこめて見せた。木村はやはり躊躇《ちゅうちょ》していた。葉子はいきなり手を延ばして木村を寝台に引きよせた。そして半分起き上がってその耳に近く口を寄せながら、
「あなたみたいに水臭い物のおっしゃりかたをなさる方《かた》もないもんね。なんとでも思っていらっしゃる事をおっしゃってくださればいいじゃありませんか。……あ、痛い……いゝえさして痛くもないの。何を思っていらっしゃるんだかおっしゃってくださいまし、ね、さ。なんでしょうねえ。伺いたい事ね。そんな他人行儀は……あ、あ、痛い、おゝ痛い……ちょっとここのところを押えてくださいまし。……さし込んで来たようで……あ、あ」
といいながら、目をつぶって、床の上に寝倒れると、木村の手を持ち添えて自分の脾腹《ひばら》を押えさして、つらそうに歯をくいしばってシーツに顔を埋《うず》めた。肩でつく息気《いき》がかすかに雪白《せっぱく》のシーツを震わした。
木村はあたふたしながら、今までの言葉などはそっちのけに
前へ
次へ
全170ページ中159ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング