顔を伏せて、ほんとうに自分のためにさめざめと泣き続けた。
こうして小半時《こはんとき》もたった時、船は桟橋につながれたと見えて、二度目の汽笛が鳴りはためいた。葉子は物懶《ものう》げに頭をもたげて見た。ハンケチは涙のためにしぼるほどぬれて丸まっていた。水夫らが繋《つな》ぎ綱《づな》を受けたりやったりする音と、鋲釘《びょうくぎ》を打ちつけた靴《くつ》で甲板《かんぱん》を歩き回る音とが入り乱れて、頭の上はさながら火事場のような騒ぎだった。泣いて泣いて泣き尽くした子供のようなぼんやりした取りとめのない心持ちで、葉子は何を思うともなくそれを聞いていた。
と突然戸外で事務長の、
「ここがお部屋《へや》です」
という声がした。それがまるで雷か何かのように恐ろしく聞こえた。葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]となった。準備をしておくつもりでいながらなんの準備もできていない事も思った。今の心持ちは平気で木村に会える心持ちではなかった。おろおろしながら立ちは上がったが、立ち上がってもどうする事もできないのだと思うと、追いつめられた罪人のように、頭の毛を両手で押えて、髪の毛をむしりながら、寝台の上にがば[#「がば」に傍点]と伏さってしまった。
戸があいた。
「戸があいた」、葉子は自分自身に救いを求めるように、こう心の中でうめいた。そして息気《いき》もとまるほど身内がしゃちこ[#「しゃちこ」に傍点]ばってしまっていた。
「早月《さつき》さん、木村さんが見えましたよ」
事務長の声だ。あゝ事務長の声だ。事務長の声だ。葉子は身を震わせて壁のほうに顔を向けた。……事務長の声だ……。
「葉子さん」
木村の声だ。今度は感情に震えた木村の声が聞こえて来た。葉子は気が狂いそうだった。とにかく二人《ふたり》の顔を見る事はどうしてもできない。葉子は二人に背《うし》ろを向けますます壁のほうにもがきよりながら、涙の暇から狂人のように叫んだ。たちまち高くたちまち低いその震え声は笑っているようにさえ聞こえた。
「出て……お二人ともどうか出て……この部屋を……後生《ごしょう》ですから今この部屋を……出てくださいまし……」
木村はひどく不安げに葉子によりそってその肩に手をかけた。木村の手を感ずると恐怖と嫌悪《けんお》とのために身をちぢめて壁にしがみついた。
「痛い……いけません……お腹《なか
前へ
次へ
全170ページ中140ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
有島 武郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング