す」
 事務長は虻《あぶ》に当惑した熊《くま》のような顔つきで、柄《がら》にもない謹慎を装いながらこう受け答えた。それから突然本気な表情に返って、
 「わたしも事務長であって見れば、どのお客様に対しても責任があるのだで、御迷惑になるような事はせんつもりですが」
 ここで彼は急に仮面を取り去ったようににこにこし出した。
 「そうむきになるほどの事でもないじゃありませんか。たかが早月《さつき》さんに一度か二度|愛嬌《あいきょう》をいうていただいて、それで検疫の時間が二時間から違うのですもの。いつでもここで四時間の以上もむだにせにゃならんのですて」
 田川夫人がますますせき込んで、矢継《やつ》ぎ早《ばや》にまくしかけようとするのを、事務長は事もなげに軽々とおっかぶせて、
 「それにしてからがお話はいかがです、部屋《へや》で伺いましょうか。ほかのお客様の手前もいかがです。博士《はかせ》、例のとおり狭っこい所ですが、甲板《かんぱん》ではゆっくりもできませんで、あそこでお茶でも入れましょう。早月さんあなたもいかがです」
 と笑い笑い言ってからくるりッ[#「くるりッ」に傍点]と葉子のほうに向き直って、田川夫妻には気が付かないように頓狂《とんきょう》な顔をちょっとして見せた。
 横浜で倉地のあとに続いて船室への階子段《はしごだん》を下る時始めて嗅《か》ぎ覚えたウイスキーと葉巻とのまじり合ったような甘たるい一種の香《にお》いが、この時かすかに葉子の鼻をかすめたと思った。それをかぐと葉子の情熱のほむらが一時にあおり立てられて、人前では考えられもせぬような思いが、旋風《つむじかぜ》のごとく頭の中をこそいで通るのを覚えた。男にはそれがどんな印象を与えたかを顧みる暇もなく、田川夫妻の前ということもはばからずに、自分では醜いに違いないと思うような微笑が、覚えず葉子の眉《まゆ》の間に浮かび上がった。事務長は小むずかしい顔になって振り返りながら、
 「いかがです」ともう一度田川夫妻を促した。しかし田川博士は自分の妻のおとなげないのをあわれむ物わかりのいい紳士という態度を見せて、態《てい》よく事務長にことわりをいって、夫人と一緒にそこを立ち去った。
 「ちょっといらっしゃい」
 田川夫妻の姿が見えなくなると、事務長はろくろく葉子を見むきもしないでこういいながら先に立った。葉子は小娘のようにいそいそと
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