、あらん限りの感情が目まぐるしくわき上がっていたその胸には、底のほうに暗い悲哀がこちん[#「こちん」に傍点]とよどんでいるばかりだった。
葉子はこんな不思議な心の状態からのがれ出ようと、思い出したように頭を働かして見たが、その努力は心にもなくかすかなはかないものだった。そしてその不思議に混乱した心の状態もいわばたえきれぬほどの切《せつ》なさは持っていなかった。葉子はそんなにしてぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と目をさましそうになったり、意識の仮睡《かすい》に陥ったりした。猛烈な胃痙攣《いけいれん》を起こした患者が、モルヒネの注射を受けて、間歇的《かんけつてき》に起こる痛みのために無意識に顔をしかめながら、麻薬《まやく》の恐ろしい力の下に、ただ昏々《こんこん》と奇怪な仮睡に陥り込むように、葉子の心は無理無体な努力で時々驚いたように乱れさわぎながら、たちまち物すごい沈滞の淵《ふち》深く落ちて行くのだった。葉子の意志はいかに手を延ばしても、もう心の落ち行く深みには届きかねた。頭の中は熱を持って、ただぼーと黄色く煙《けむ》っていた。その黄色い煙の中を時々|紅《あか》い火や青い火がちかちかと神経をうずかして駆け通った。息気《いき》づまるようなけさの光景や、過去のあらゆる回想が、入り乱れて現われて来ても、葉子はそれに対して毛の末ほども心を動かされはしなかった。それは遠い遠い木魂《こだま》のようにうつろにかすかに響いては消えて行くばかりだった。過去の自分と今の自分とのこれほどな恐ろしい距《へだた》りを、葉子は恐れげもなく、成るがままに任せて置いて、重くよどんだ絶望的な悲哀にただわけもなくどこまでも引っぱられて行った。その先には暗い忘却が待ち設けていた。涙で重ったまぶたはだんだん打ち開いたままのひとみを蔽《おお》って行った。少し開いた口びるの間からは、うめくような軽い鼾《いびき》がもれ始めた。それを葉子はかすかに意識しながら、ソファの上にうつむきになったまま、いつとはなしに夢もない深い眠りに陥っていた。
どのくらい眠っていたかわからない。突然葉子は心臓でも破裂しそうな驚きに打たれて、はっ[#「はっ」に傍点]と目を開いて頭をもたげた。ずき/\/\と頭の心《しん》が痛んで、部屋《へや》の中は火のように輝いて面《おもて》も向けられなかった。もう昼ごろだなと気が付く中にも、雷とも思われ
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