ぼうじま》のネルの筒袖《つつそで》一枚を着たままで、目のはれぼったい顔をして、小山のような大きな五体を寝床にくねらして、突然はいって来た葉子をぎっ[#「ぎっ」に傍点]と見守っていた。とうの昔に心の中は見とおしきっているような、それでいて言葉もろくろくかわさないほどに無頓着《むとんじゃく》に見える男の前に立って、葉子はさすがにしばらくはいい出《い》づべき言葉もなかった。あせる気を押し鎮《しず》め押ししずめ、顔色を動かさないだけの沈着を持ち続けようとつとめたが、今までに覚えない惑乱のために、頭はぐら[#「ぐら」に傍点]ぐらとなって、無意味だと自分でさえ思われるような微笑をもらす愚かさをどうする事もできなかった。倉地は葉子がその朝その部屋《へや》に来るのを前からちゃん[#「ちゃん」に傍点]と知り抜いてでもいたように落ち付き払って、朝の挨拶《あいさつ》もせずに、
「さ、おかけなさい。ここが楽《らく》だ」
といつものとおりな少し見おろした親しみのある言葉をかけて、昼間は長椅子《ながいす》がわりに使う寝台の座を少し譲って待っている。葉子は敵意を含んでさえ見える様子で立ったまま、
「何か御用がおありになるそうでございますが……」
固くなりながらいって、あゝまた見えすく事をいってしまったとすぐ後悔した。事務長は葉子の言葉を追いかけるように、
「用はあとでいいます。まあおかけなさい」
といってすましていた。その言葉を聞くと、葉子はそのいいなり放題になるよりしかたがなかった。「お前は結局はここにすわるようになるんだよ」と事務長は言葉の裏に未来を予知しきっているのが葉子の心を一種捨てばちなものにした。「すわってやるものか」という習慣的な男に対する反抗心はただわけもなくひしがれていた。葉子はつか[#「つか」に傍点]つかと進みよって事務長と押し並んで寝台に腰かけてしまった。
この一つの挙動が――このなんでもない一つの挙動が急に葉子の心を軽くしてくれた。葉子はその瞬間に大急ぎで今まで失いかけていたものを自分のほうにたぐり戻《もど》した。そして事務長を流し目に見やって、ちょっとほほえんだその微笑には、さっきの微笑の愚かしさが潜んでいないのを信ずる事ができた。葉子の性格の深みからわき出るおそろしい自然さがまとまった姿を現わし始めた。
「何御用でいらっしゃいます」
そのわざとらしい
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