子の顔を孔《あな》のあくほどにらみつけて、聞くにたえない雑言《ぞうごん》を高々とののしって、自分の群れを笑わした。しかし葉子は死にかけた子にかしずく母のように、そんな事には目もくれずに老人のそばに引き添って、臥安《ねやす》いように寝床を取りなおしてやったり、枕《まくら》をあてがってやったりして、なおもその場を去らなかった。そんなむさ苦しいきたない所にいて老人がほったらかしておか黷驍フを見ると、葉子はなんという事なしに涙があとからあとから流れてたまらなかった。葉子はそこを出て無理に船医の興録をそこに引っぱって来た。そして権威を持った人のように水夫長にはっきりしたさしずをして、始めて安心して悠々《ゆうゆう》とその部屋を出た。葉子の顔には自分のした事に対して子供のような喜びの色が浮かんでいた。水夫たちは暗い中にもそれを見のがさなかったと見える。葉子が出て行く時には一人《ひとり》として葉子に雑言《ぞうごん》をなげつけるものがいなかった。それから水夫らはだれいうとなしに葉子の事を「姉御《あねご》姉御」と呼んでうわさするようになった。その時の事を水夫長は葉子に感謝したのだ。
 葉子はしんみにいろいろと病人の事を水夫長に聞きただした。実際水夫長に話しかけられるまでは、葉子はそんな事は思い出しもしていなかったのだ。そして水夫長に思い出させられて見ると、急にその老水夫の事が心配になり出したのだった。足はとうとう不具になったらしいが痛みはたいていなくなったと水夫長がいうと葉子は始めて安心して、また陸のほうに目をやった。水夫長とボーイとの足音は廊下のかなたに遠ざかって消えてしまった。葉子の足もとにはただかすかなエンジンの音と波が舷《ふなばた》を打つ音とが聞こえるばかりだった。
 葉子はまた自分一人の心に帰ろうとしてしばらくじっ[#「じっ」に傍点]と単調な陸地に目をやっていた。その時突然岡が立派な西洋絹の寝衣《ねまき》の上に厚い外套《がいとう》を着て葉子のほうに近づいて来たのを、葉子は視角の一端にちらりと捕えた。夜でも朝でも葉子がひとりでいると、どこでどうしてそれを知るのか、いつのまにか岡がきっと身近《みぢか》に現われるのが常なので、葉子は待ち設けていたように振り返って、朝の新しいやさしい微笑を与えてやった。
 「朝はまだずいぶん冷えますね」
 といいながら、岡は少し人になれた少女のように
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