も不思議な熱を覚えながら、一種のリズムの中に揺り動かされるようになって行った。何を見るともなく凝然と見定めた目の前に、無数の星が船の動揺につれて光のまたたきをしながら、ゆるいテンポをととのえてゆらりゆらりと静かにおどると、帆綱のうなりが張り切ったバスの声となり、その間を「おーい、おい、おい、おーい……」と心の声とも波のうめき[#「うめき」に傍点]ともわからぬトレモロが流れ、盛り上がり、くずれこむ波また波がテノルの役目を勤めた。声が形となり、形が声となり、それから一緒にもつれ合う姿を葉子は目で聞いたり耳で見たりしていた。なんのために夜寒《よさむ》を甲板に出て来たか葉子は忘れていた。夢遊病者のように葉子はまっしぐらにこの不思議な世界に落ちこんで行った。それでいて、葉子の心の一部分はいたましいほど醒《さ》めきっていた。葉子は燕《つばめ》のようにその音楽的な夢幻界を翔《か》け上がりくぐりぬけてさまざまな事を考えていた。
 屈辱、屈辱……屈辱――思索の壁は屈辱というちかちかと寒く光る色で、いちめんに塗りつぶされていた。その表面に田川夫人や事務長や田川博士の姿が目まぐるしく音律に乗って動いた。葉子はうるさそうに頭の中にある手のようなもので無性《むしょう》に払いのけようと試みたがむだだった。皮肉な横目をつかって青味を帯びた田川夫人の顔が、かき乱された水の中を、小さな泡《あわ》が逃げてでも行くように、ふらふらとゆらめきながら上のほうに遠ざかって行った。まずよかったと思うと、事務長の insolent な目つきが低い調子の伴音となって、じっ[#「じっ」に傍点]と動かない中にも力ある震動をしながら、葉子の眼睛《ひとみ》の奥を網膜まで見とおすほどぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と見すえていた。「なんで事務長や田川夫人なんぞがこんなに自分をわずらわすだろう。憎らしい。なんの因縁《いんねん》で……」葉子は自分をこう卑しみながらも、男の目を迎え慣れた媚《こ》びの色を知らず知らず上《うわ》まぶたに集めて、それに応じようとする途端、日に向かって目を閉じた時に綾《あや》をなして乱れ飛ぶあの不思議な種々な色の光体、それに似たものが繚乱《りょうらん》として心を取り囲んだ。星はゆるいテンポでゆらりゆらりと静かにおどっている。「おーい、おい、おい、おーい」……葉子は思わずかっ[#「かっ」に傍点]と腹を立てた。そ
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