げるように長椅子《ながいす》に倒れかかった。
それは不思議だった。葉子の神経は時には自分でも持て余すほど鋭く働いて、だれも気のつかないにおいがたまらないほど気になったり、人の着ている着物の色合いが見ていられないほど不調和で不愉快であったり、周囲の人が腑抜《ふぬ》けな木偶《でく》のように甲斐《かい》なく思われたり、静かに空を渡って行く雲の脚《あし》が瞑眩《めまい》がするほどめまぐるしく見えたりして、我慢にもじっ[#「じっ」に傍点]としていられない事は絶えずあったけれども、その夜のように鋭く神経のとがって来た事は覚えがなかった。神経の末梢《まっしょう》が、まるで大風にあったこずえのようにざわざわと音がするかとさえ思われた。葉子は足と足とをぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]とからみ合わせてそれに力をこめながら、右手の指先を四本そろえてその爪先《つまさき》を、水晶のように固い美しい歯で一思いに激しくかんで見たりした。悪寒《おかん》のような小刻みな身ぶるいが絶えず足のほうから頭へと波動のように伝わった。寒いためにそうなるのか、暑いためにそうなるのかよくわからなかった。そうしていらいらしながらトランクを開いたままで取り散らした部屋の中をぼんやり見やっていた。目はうるさくかすんでいた。ふと落ち散ったものの中に葉子は事務長の名刺があるのに目をつけて、身をかがめてそれを拾い上げた。それを拾い上げるとま二つに引き裂いてまた床になげた。それはあまりに手答えなく裂けてしまった。葉子はまた何かもっとうん[#「うん」に傍点]と手答えのあるものを尋ねるように熱して輝く目でまじまじとあたりを見回していた。と、カーテンを引き忘れていた。恥ずかしい様子を見られはしなかったかと思うと胸がどきん[#「どきん」に傍点]としていきなり立ち上がろうとした拍子《ひょうし》に、葉子は窓の外に人の顔を認めたように思った。田川博士のようでもあった。田川夫人のようでもあった。しかしそんなはずはない、二人はもう部屋に帰っている。事務長……
葉子は思わず裸体を見られた女のように固くなって立ちすくんだ。激しいおののきが襲って来た。そして何の思慮もなく床の上のボアを取って胸にあてがったが、次の瞬間にはトランクの中からショールを取り出してボアと一緒にそれをかかえて、逃げる人のように、あたふた[#「あたふた」に傍点]と部屋を出た。
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