行ってしまった。最後に物おじする様子の乳母《うば》が葉子の前に来て腰をかがめた。葉子はとうとう行き詰まる所まで来たような思いをしながら、振り返って古藤を見ると、古藤は依然として手欄《てすり》に身を寄せたまま、気抜けでもしたように、目を据えて自分の二三|間《げん》先をぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]ながめていた。
「義一さん、船の出るのも間《ま》が無さそうですからどうか此女《これ》……わたしの乳母ですの……の手を引いておろしてやってくださいましな。すべりでもすると怖《こお》うござんすから」
と葉子にいわれて古藤は始めてわれに返った。そしてひとり言《ごと》のように、
「この船で僕もアメリカに行って見たいなあ」
とのんきな事をいった。
「どうか桟橋まで見てやってくださいましね。あなたもそのうちぜひいらっしゃいましな……義一さんそれではこれでお別れ。ほんとうに、ほんとうに」
といいながら葉子はなんとなく親しみをいちばん深くこの青年に感じて、大きな目で古藤をじっと見た。古藤も今さらのように葉子をじっと見た。
「お礼の申しようもありません。この上のお願いです。どうぞ妹たちを見てやってくださいまし。あんな人たちにはどうしたって頼んではおけませんから。……さようなら」
「さようなら」
古藤は鸚鵡返《おうむがえ》しに没義道《もぎどう》にこれだけいって、ふいと手欄《てすり》を離れて、麦稈《むぎわら》帽子を目深《まぶか》にかぶりながら、乳母に付き添った。
葉子は階子《はしご》の上がり口まで行って二人に傘《かさ》をかざしてやって、一段一段遠ざかって行く二人《ふたり》の姿を見送った。東京で別れを告げた愛子や貞世の姿が、雨にぬれた傘のへんを幻影となって見えたり隠れたりしたように思った。葉子は不思議な心の執着から定子にはとうとう会わないでしまった。愛子と貞世とはぜひ見送りがしたいというのを、葉子はしかりつけるようにいってとめてしまった。葉子が人力車で家を出ようとすると、なんの気なしに愛子が前髪から抜いて鬢《びん》をかこうとした櫛《くし》が、もろくもぽきり[#「ぽきり」に傍点]と折れた。それを見ると愛子は堪《こら》え堪えていた涙の堰《せき》を切って声を立てて泣き出した。貞世は初めから腹でも立てたように、燃えるような目からとめどなく涙を流して、じっ[#「じっ」に傍点]と葉子を見つ
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