でいたアグネス。……そのアグネスの睫毛《まつげ》はいつでも涙で洗ったように美しかった。殊に色白なその頬は寝入ってから健康そうに上気して、その間に形よく盛り上った小鼻は穏やかな呼吸と共に微細に震えていた。「クララの光の髪、アグネスの光の眼」といわれた、無類な潤みを持った童女にしてはどこか哀れな、大きなその眼は見る事が出来なかった。クララは、見つめるほど、骨肉のいとしさがこみ上げて来て、そっと掌《てのひら》で髪から頬を撫《な》でさすった。その手に感ずる暖いなめらかな触感はクララの愛欲を火のようにした。クララは抱きしめて思い存分いとしがってやりたくなって半身を起して乗しかかった。同時にその場合の大事がクララを思いとどまらした。クララは肱《ひじ》をついて半分身を起したままで、アグネスを見やりながらほろほろと泣いた。死んだ一人児《ひとりご》を母が撫でさすりながら泣くように。
 弾条《ぜんまい》のきしむ音と共に時計が鳴り出した。クララは数を数えないでも丁度|夜半《よなか》である事を知っていた。そして涙を拭いもあえず、静かに床からすべり出た。打合せておいた時刻が来たのだ。安息日が過ぎて神聖月曜日が来たのだ。クララは床から下り立つと昨日|堂母《ドーモ》に着て行ったベネチヤの白絹を着ようとした。それは花嫁にふさわしい色だった。しかし見ると大椅子の上に昨夜母の持って来てくれた外《ほか》の衣裳が置いてあった。それはクララが好んで来た藤紫の一揃《ひとそろい》だった。神聖月曜日にも聖《サン》ルフィノ寺院で式があるから、昨日のものとは違った服装をさせようという母の心尽しがすぐ知れた。クララは嬉しく有難く思いながらそれを着た。そして着ながらもしこれが両親の許しを得た結婚であったならばと思った。父は恐らくあすこの椅子にかけて微笑しながら自分を見守るだろう。母と女中とは前に立ち後ろに立ちして化粧を手伝う事だろう。そう思いながらクララは音を立てないように用心して、かけにくい背中のボタンをかけたりした。そしていつもの習慣通りに小箪笥《こだんす》の引出しから頸飾《くびかざり》と指輪との入れてある小箱を取出したが、それはこの際になって何んの用もないものだと気が付いた。クララはふとその宝玉に未練を覚えた。その一つ一つにはそれぞれの思出がつきまつわっていた。クララは小箱の蓋《ふた》に軽い接吻を与えて元の通りにしまいこんだ。淋しい花嫁の身じたく[#「じたく」に傍点]は静かな夜の中に淋しく終った。その中《うち》に心は段々落着いて力を得て行った。こんなに泣かれてはいよいよ家を逃れ出る時にはどうしたらいいだろうと思った床の中の心配は無用になった。沈んではいるがしゃん[#「しゃん」に傍点]と張切った心持ちになって、クララは部屋の隅の聖像の前に跪《ひざまず》いて燭火《あかり》を捧げた。そして静かに身の来《こ》し方《かた》を返り見た。
 幼い時からクララにはいい現わし得ない不満足が心の底にあった。いらいらした気分はよく髪の結い方、衣服の着せ方に小言をいわせた。さんざん小言をいってから独りになると何んともいえない淋しさに襲われて、部屋の隅でただ一人半日も泣いていた記憶も甦《よみがえ》った。クララはそんな時には大好きな母の顔さえ見る事を嫌った。ましてや父の顔は野獣のように見えた。いまに誰れか来て私を助けてくれる。堂母《ドーモ》の壁画にあるような天国に連れて行ってくれるからいいとそう思った。色々な宗教画がある度に自分の行きたい所は何所《どこ》だろうと思いながら注意した。その中《うち》にクララの心の中には二つの世界が考えられるようになりだした。一つはアッシジの市民が、僧侶をさえこめて、上から下まで生活している世界だ。一つは市民らが信仰しているにせよ、いぬにせよ、敬意を捧げている基督《キリスト》及び諸聖徒の世界だ。クララは第一の世界に生い立って栄耀栄華《えいようえいが》を極むべき身分にあった。その世界に何故|渇仰《かつごう》の眼を向け出したか、クララ自身も分らなかったが、当時ペルジヤの町に対して勝利を得て独立と繁盛との誇りに賑やか立ったアッシジの辻《つじ》を、豪奢《ごうしゃ》の市民に立ち交りながら、「平和を求めよ而《しか》して永遠の平和あれ」と叫んで歩く名もない乞食の姿を彼女は何んとなく考え深く眺めないではいられなかった。やがて死んだのか宗旨|代《が》えをしたのか、その乞食は影を見せなくなって、市民は誰れ憚《はばか》らず思うさまの生活に耽《ふけ》っていたが、クララはどうしても父や父の友達などの送る生活に従って活《い》きようと思う心地《ここち》はなかった。その頃にフランシス――この間まで第一の生活の先頭に立って雄々しくも第二の世界に盾《たて》をついたフランシス――が百姓の服を着て、子供らに狂人と罵
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