》なる法皇の御許によって、末世の罪人、神の召によって人を喜ばす軽業師《かるわざし》なるフランシスが善良なアッシジの市民に告げる。フランシスは今日教友のレオに堂母《ドーモ》で説教するようにといった。レオは神を語るだけの弁才を神から授《さずか》っていないと拒《こば》んだ。フランシスはそれなら裸になって行って、体で説教しろといった。レオは雄々《おお》しくも裸かになって出て行った。さてレオが去った後、レオにかかる苦行《くぎょう》を強いながら、何事もなげに居残ったこのフランシスを神は厳しく鞭《むちう》ち給うた。眼ある者は見よ。懺悔《ざんげ》したフランシスは諸君の前に立つ。諸君はフランシスの裸形を憐まるるか。しからば諸君が眼を注いで見ねばならぬものが彼所《かしこ》にある。眼あるものは更に眼をあげて見よ」
 クララはいつの間にか男の裸体と相対している事も忘れて、フランシスを見やっていた。フランシスは「眼をあげて見よ」というと同時に祭壇に安置された十字架聖像《クルシ・フィッキス》を恭《うやうや》しく指した。十字架上の基督は痛ましくも痩《や》せこけた裸形のままで会衆を見下ろしていた。二十八のフランシスは何所《どこ》といって際立って人眼を引くような容貌を持っていなかったが、祈祷《きとう》と、断食《だんじき》と、労働のためにやつれた姿は、霊化した彼れの心をそのまま写し出していた。長い説教ではなかったが神の愛、貧窮《ひんきゅう》の祝福などを語って彼がアーメンといって口をつぐんだ時には、人々の愛心がどん底からゆすりあげられて思わず互に固い握手をしてすすり泣いていた。クララは人々の泣くようには泣かなかった。彼女は自分の眼が燃えるように思った。
 その日彼女はフランシスに懺悔《ざんげ》の席に列《つらな》る事を申しこんだ。懺悔するものはクララの外《ほか》にも沢山いたが、クララはわざと最後を選んだ。クララの番が来て祭壇の後ろのアプスに行くと、フランシスはただ一人|獣色《けものいろ》といわれる樺色《かばいろ》の百姓服を着て、繩の帯を結んで、胸の前に組んだ手を見入るように首を下げて、壁添いの腰かけにかけていた。クララを見ると手まねで自分の前にある椅子《いす》に坐れと指した。二人は向いあって坐った。そして眼を見合わした。
 曇った秋の午後のアプスは寒く淋しく暗み亘《わた》っていた。ステインド・グラスから漏れる光線は、いくつかの細長い窓を暗く彩《いろど》って、それがクララの髪の毛に来てしめやかに戯《たわむ》れた。恐ろしいほどにあたりは物静かだった。クララの燃える眼は命の綱のようにフランシスの眼にすがりついた。フランシスの眼は落着いた愛に満ち満ちてクララの眼をかき抱くようにした。クララの心は酔いしれて、フランシスの眼を通してその尊い魂を拝もうとした。やがてクララの眼に涙が溢れるほどたまったと思うと、ほろほろと頬を伝って流れはじめた。彼女はそれでも真向《まっこう》にフランシスを見守る事をやめなかった。こうしてまたいくらかの時が過ぎた。クララはただ黙ったままで坐っていた。
 「神の処女《むすめ》」
 フランシスはやがて厳かにこういった。クララは眼を外にうつすことが出来なかった。
 「あなたの懺悔は神に達した。神は嘉《よみ》し給うた。アーメン」
 クララはこの上控えてはいられなかった。椅子からすべり下りると敷石の上に身を投げ出して、思い存分泣いた。その小さい心臓は無上の歓喜のために破れようとした。思わず身をすり寄せて、素足のままのフランシスの爪先きに手を触れると、フランシスは静かに足を引きすざらせながら、いたわるように祝福するように、彼女の頭に軽く手を置いて間遠《まどお》につぶやき始めた。小雨《こさめ》の雨垂れのようにその言葉は、清く、小さく鋭く、クララの心をうった。
 「何よりもいい事は心の清く貧しい事だ」
 独語のようなささやきがこう聞こえた。そして暫《しば》らく沈黙が続いた。
 「人々は今のままで満足だと思っている。私にはそうは思えない。あなたもそうは思わない。神はそれをよしと見給うだろう。兄弟の日、姉妹の月は輝くのに、人は輝く喜びを忘れている。雲雀《ひばり》は歌うのに人は歌わない。木は跳《おど》るのに人は跳らない。淋しい世の中だ」
 また沈黙。
 「沈黙は貧しさほどに美しく尊い。あなたの沈黙を私は美酒《うまざけ》のように飲んだ」
 それから恐ろしいほどの長い沈黙が続いた。突然フランシスは慄《ふる》える声を押鎮めながらつぶやいた。
 「あなたは私を恋している」
 クララはぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として更《あらた》めて聖者を見た。フランシスは激しい心の動揺から咄嗟《とっさ》の間に立ちなおっていた。
 「そんなに驚かないでもいい」
 そういって静かに眼を閉じた。
 クラ
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