な大きな巻煙草のようなものを口に銜《くわ》えて青い煙をほがらか[#「ほがらか」に傍点]に吹いていた。そこからは気息《いき》づまるような不快な匂が彼れの鼻の奥をつんつん刺戟《しげき》した。
 「小作料の一文も納めないで、どの面《つら》下げて来臭《きくさ》った。来年からは魂を入れかえろ。そして辞儀の一つもする事を覚えてから出直すなら出直して来い。馬鹿」
 そして部屋をゆするような高笑《たかわらい》が聞こえた。仁右衛門が自分でも分らない事を寝言のようにいうのを、始めの間は聞き直したり、補ったりしていたが、やがて場主は堪忍袋を切らしたという風にこう怒鳴《どな》ったのだ。仁右衛門は高笑いの一とくぎりごとに、たたかれるように頭をすくめていたが、辞儀もせずに夢中で立上った。彼れの顔は部屋の暑さのためと、のぼせ上ったために湯気を出さんばかり赤くなっていた。
 仁右衛門はすっかり[#「すっかり」に傍点]打摧《うちくだ》かれて自分の小さな小屋に帰った。彼れには農場の空の上までも地主の頑丈《がんじょう》そうな大きな手が広がっているように思えた。雪を含んだ雲は気息《いき》苦しいまでに彼れの頭を押えつけた。「馬鹿」その声は動《やや》ともすると彼れの耳の中で怒鳴られた。何んという暮しの違いだ。何んという人間の違いだ。親方が人間なら俺《お》れは人間じゃない。俺れが人間なら親方は人間じゃない。彼れはそう思った。そして唯呆《ただあき》れて黙って考えこんでしまった。
 粗朶《そだ》がぶしぶしと燻《い》ぶるその向座《むこうざ》には、妻が襤褸《ぼろ》につつまれて、髪をぼうぼうと乱したまま、愚かな眼と口とを節孔《ふしあな》のように開け放してぼんやり坐っていた。しんしんと雪はとめ度なく降り出して来た。妻の膝《ひざ》の上には赤坊もいなかった。
 その晩から天気は激変して吹雪《ふぶき》になった。翌朝《あくるあさ》仁右衛門が眼をさますと、吹き込んだ雪が足から腰にかけて薄《うっす》ら積っていた。鋭い口笛のようなうなり[#「うなり」に傍点]を立てて吹きまく風は、小屋をめきりめきりとゆすぶり立てた。風が小凪《おな》ぐと滅入《めい》るような静かさが囲炉裡《いろり》まで逼《せま》って来た。
 仁右衛門は朝から酒を欲したけれども一滴もありようはなかった。寝起きから妙に思い入っているようだった彼れは、何かのきっかけ[#「きっかけ」に傍点]に勢よく立ち上って、斧《おの》を取上げた。そして馬の前に立った。馬はなつかしげに鼻先きをつき出した。仁右衛門は無表情な顔をして口をもごもごさせながら馬の眼と眼との間をおとなしく撫《な》でていたが、いきなり体を浮かすように後ろに反らして斧を振り上げたと思うと、力まかせにその眉間《みけん》に打ちこんだ。うとましい音が彼れの腹に応《こた》えて、馬は声も立てずに前膝をついて横倒しにどうと倒れた。痙攣的《けいれんてき》に後脚で蹴《け》るようなまね[#「まね」に傍点]をして、潤みを持った眼は可憐《かれん》にも何かを見詰めていた。
 「やれ怖い事するでねえ、傷《いた》ましいまあ」
 すすぎ物をしていた妻は、振返ってこの様を見ると、恐ろしい眼付きをしておびえるように立上りながらこういった。
 「黙れってば。物いうと汝《わ》れもたたき殺されっぞ」
 仁右衛門は殺人者が生き残った者を脅かすような低い皺枯《しわが》れた声でたしなめた。
 嵐が急にやんだように二人の心にはかーん[#「かーん」に傍点]とした沈黙が襲って来た。仁右衛門はだらんと下げた右手に斧をぶらさげたまま、妻は雑巾《ぞうきん》のように汚い布巾《ふきん》を胸の所に押しあてたまま、憚《はばか》るように顔を見合せて突立っていた。
 「ここへ来《こ》う」
 やがて仁右衛門は呻《うめ》くように斧を一寸《ちょっと》動かして妻を呼んだ。
 彼れは妻に手伝わせて馬の皮を剥《は》ぎ始めた。生臭い匂が小屋一杯になった。厚い舌をだらりと横に出した顔だけの皮を残して、馬はやがて裸身《はだかみ》にされて藁《わら》の上に堅くなって横《よこた》わった。白い腱《すじ》と赤い肉とが無気味な縞《しま》となってそこに曝《さ》らされた。仁右衛門は皮を棒のように巻いて藁繩でしばり上げた。
 それから仁右衛門のいうままに妻は小屋の中を片付けはじめた。背負えるだけは雑穀も荷造りして大小二つの荷が出来た。妻は良人《おっと》の心持ちが分るとまた長い苦しい漂浪の生活を思いやっておろおろと泣かんばかりになったが、夫の荒立った気分を怖れて涙を飲みこみ飲みこみした。仁右衛門は小屋の真中に突立って隅《すみ》から隅まで目測でもするように見廻した。二人は黙ったままでつまご[#「つまご」に傍点]をはいた。妻が風呂敷を被《かぶ》って荷を背負うと仁右衛門は後ろから助け起してやった。妻はとうとう身を震わして泣き出した。意外にも仁右衛門は叱りつけなかった。そして自分は大きな荷を軽々と背負い上げてその上に馬の皮を乗せた。二人は言い合せたようにもう一度小屋を見廻した。
 小屋の戸を開けると顔向けも出来ないほど雪が吹き込んだ。荷を背負って重くなった二人の体はまだ堅くならない白い泥の中に腰のあたりまで埋まった。
 仁右衛門は一旦|戸外《そと》に出てから待てといって引返して来た。荷物を背負ったままで、彼れは藁繩の片っ方の端を囲炉裡にくべ、もう一つの端を壁際にもって行ってその上に細《こまか》く刻んだ馬糧の藁をふりかけた。
 天も地も一つになった。颯《さっ》と風が吹きおろしたと思うと、積雪は自分の方から舞い上るように舞上った。それが横なぐりに靡《なび》いて矢よりも早く空を飛んだ。佐藤の小屋やそのまわりの木立は見えたり隠れたりした。風に向った二人の半身は忽《たちま》ち白く染まって、細かい針で絶間なく刺すような刺戟《しげき》は二人の顔を真赤にして感覚を失わしめた。二人は睫毛《まつげ》に氷りつく雪を打振い打振い雪の中をこいだ。
 国道に出ると雪道がついていた。踏み堅められない深みに落ちないように仁右衛門は先きに立って瀬踏みをしながら歩いた。大きな荷を背負った二人の姿はまろびがちに少しずつ動いて行った。共同墓地の下を通る時、妻は手を合せてそっちを拝みながら歩いた――わざとらしいほど高い声を挙げて泣きながら。二人がこの村に這入《はい》った時は一頭の馬も持っていた。一人の赤坊もいた。二人はそれらのものすら自然から奪い去られてしまったのだ。
 その辺から人家は絶えた。吹きつける雪のためにへし折られる枯枝がややともすると投槍のように襲って来た。吹きまく風にもまれて木という木は魔女の髪のように乱れ狂った。
 二人の男女は重荷の下に苦しみながら少しずつ倶知安《くっちゃん》の方に動いて行った。
 椴松帯《とどまつたい》が向うに見えた。凡《すべ》ての樹《き》が裸かになった中に、この樹だけは幽鬱《ゆううつ》な暗緑の葉色をあらためなかった。真直な幹が見渡す限り天を衝《つ》いて、怒濤《どとう》のような風の音を籠《こ》めていた。二人の男女は蟻《あり》のように小さくその林に近づいて、やがてその中に呑み込まれてしまった。
(一九一七、六、一三、鶏鳴を聞きつつ擱筆《かくひつ》)



底本:「カインの末裔・クララの出家」岩波文庫、岩波書店
   1940(昭和15)年9月10日第1刷発行
   1980(昭和55)年5月16日第25刷改版発行
   1990(平成2)年4月15日第35刷発行
底本の親本:「有島武郎著作集 第三輯」新潮社
   1918(大正7)年2月刊
※初出は、「新小説」1917(大正6)年7月号。
入力:鈴木厚司
校正:地田尚
2000年3月4日公開
2003年8月31日修正
青空文庫作成ファイル:
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