井は広岡の名をいってしたり顔に小首を傾けた。事務所の硝子《ガラス》を広岡がこわすのを見たという者が出て来た。
犯人の捜索は極めて秘密に、同時にこんな田舎《いなか》にしては厳重に行われた。場主の松川は少からざる懸賞までした。しかし手がかりは皆目《かいもく》つかなかった。疑いは妙に広岡の方にかかって行った。赤坊を殺したのは笠井だと広岡の始終いうのは誰でも知っていた。広岡の馬を躓《つまず》かしたのは間接ながら笠井の娘の仕業《しわざ》だった。蹄鉄屋が馬を広岡の所に連れて行ったのは夜の十時頃だったが広岡は小屋にいなかった。その晩広岡を村で見かけたものは一人もなかった。賭場にさえいなかった。仁右衛門に不利益な色々な事情は色々に数え上げられたが、具体的な証拠は少しも上らないで夏がくれた。
秋の収穫時になるとまた雨が来た。乾燥が出来ないために、折角|実《みの》ったものまで腐る始末だった。小作はわやわやと事務所に集って小作料割引の歎願をしたが無益だった。彼らは案《あん》の定《じょう》燕麦|売揚《うりあげ》代金の中から厳密に小作料を控除された。来春の種子《たね》は愚か、冬の間を支える食料も満足に得られ
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