《とむね》を突いて浮んだ。彼れはその考に自分ながら驚いたように呆《あき》れて眼を見張っていたが、やがて大声を立てて頑童《がんどう》の如《ごと》く泣きおめき始めた。その声は醜く物凄《ものすご》かった。妻はきょっとん[#「きょっとん」に傍点]として、顔中を涙にしながら恐ろしげに良人《おっと》を見守った。
 「笠井の四国猿めが、嬰子《にが》事殺しただ。殺しただあ」
 彼れは醜い泣声の中からそう叫んだ。
 翌日彼れはまた亜麻の束を馬力に積もうとした。そこには華手《はで》なモスリンの端切《はぎ》れが乱雲の中に現われた虹《にじ》のようにしっとり朝露にしめったまま穢《きた》ない馬力の上にしまい忘られていた。

   (六)

 狂暴な仁右衛門は赤坊を亡《な》くしてから手がつけられないほど狂暴になった。その狂暴を募らせるように烈《はげ》しい盛夏が来た。春先きの長雨を償うように雨は一滴も降らなかった。秋に収穫すべき作物は裏葉が片端《かたっぱし》から黄色に変った。自然に抵抗し切れない失望の声が、黙りこくった農夫の姿から叫ばれた。
 一刻の暇もない農繁の真最中に馬市が市街地に立った。普段ならば人々は見向きも
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