、やがて川森も笠井も去ってしまった。
 水を打ったような夜の涼しさと静かさとの中にかすかな虫の音がしていた。仁右衛門は何という事なしに妻が癪《しゃく》にさわってたまらなかった。妻はまた何という事なしに良人《おっと》が憎まれてならなかった。妻は馬力の傍にうずくまり、仁右衛門はあてもなく唾《つば》を吐き散らしながら小屋の前を行ったり帰ったりした。よその農家でこの凶事があったら少くとも隣近所から二、三人の者が寄り合って、買って出した酒でも飲みちらしながら、何かと話でもして夜を更《ふ》かすのだろう。仁右衛門の所では川森さえ居残っていないのだ。妻はそれを心から淋しく思ってしくしくと泣いていた。物の三時間も二人はそうしたままで何もせずにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]小屋の前で月の光にあわれな姿をさらしていた。
 やがて仁右衛門は何を思い出したのかのそのそと小屋の中に這入って行った。妻は眼に角《かど》を立てて首だけ後ろに廻わして洞穴のような小屋の入口を見返った。暫《しば》らくすると仁右衛門は赤坊を背負って、一丁の鍬《くわ》を右手に提《さ》げて小屋から出て来た。
 「ついて来《こ》う」
 そういって
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