のように滑かな空気は動かないままに彼れをいたわるように押包んだ。荒くれた彼れの神経もそれを感じない訳には行かなかった。物なつかしいようななごやか[#「なごやか」に傍点]な心が彼れの胸にも湧いて来た。彼れは闇の中で不思議な幻覚に陥りながら淡くほほえんだ。
 足音が聞こえた。彼れの神経は一時に叢立《むらだ》った。しかしやがて彼れの前に立ったのはたしかに女の形ではなかった。
 「誰れだ汝《わり》ゃ」
 低かったけれども闇をすかして眼を据えた彼れの声は怒りに震えていた。
 「お主こそ誰れだと思うたら広岡さんじゃな。何んしに今時こないな所にいるのぞい」
 仁右衛門は声の主が笠井の四国猿奴《しこくざるめ》だと知るとかっ[#「かっ」に傍点]となった。笠井は農場一の物識《ものし》りで金持《まるもち》だ。それだけで癇癪《かんしゃく》の種には十分だ。彼れはいきなり笠井に飛びかかって胸倉《むなぐら》をひっつかんだ。かーっ[#「かーっ」に傍点]といって出した唾《つば》を危くその面《かお》に吐きつけようとした。
 この頃浮浪人が出て毎晩集会所に集って焚火《たきび》なぞをするから用心が悪い、と人々がいうので神社の世話役をしていた笠井は、おどかしつけるつもりで見廻りに来たのだった。彼れは固《もと》より樫《かし》の棒位の身じたくはしていたが、相手が「まだか」では口もきけないほど縮んでしまった。
 「汝《わり》ゃ俺《お》らが媾曳《あいびき》の邪魔べこく気だな、俺らがする事に汝《われ》が手だしはいんねえだ。首ねっこべひんぬかれんな」
 彼れの言葉はせき上る息気《いき》の間に押しひしゃげ[#「ひしゃげ」に傍点]られてがらがら[#「がらがら」に傍点]震えていた。
 「そりゃ邪推じゃがなお主《ぬし》」
と笠井は口早にそこに来合せた仔細《しさい》と、丁度いい機会だから折入って頼む事がある旨をいいだした。仁右衛門は卑下して出た笠井にちょっと興味を感じて胸倉から手を離して、閾《しきい》に腰をすえた。暗闇の中でも、笠井が眼をきょとん[#「きょとん」に傍点]とさせて火傷《やけど》の方の半面を平手で撫《な》でまわしているのが想像された。そしてやがて腰を下《おろ》して、今までの慌《あわ》てかたにも似ず悠々《ゆうゆう》と煙草入《たばこいれ》を出してマッチを擦《す》った。折入って頼むといったのは小作一同の地主に対する苦情に就いてであった。一反歩二円二十銭の畑代はこの地方にない高相場であるのに、どんな凶年でも割引をしないために、小作は一人として借金をしていないものはない。金では取れないと見ると帳場は立毛《たちけ》の中《うち》に押収してしまう。従って市街地の商人からは眼の飛び出るような上前《うわまえ》をはねられて食代《くいしろ》を買わねばならぬ。だから今度地主が来たら一同で是非とも小作料の値下を要求するのだ。笠井はその総代になっているのだが一人では心細いから仁右衛門も出て力になってくれというのであった。
 「白痴《こけ》なことこくなてえば。二両二貫が何|高値《たか》いべ。汝《われ》たちが骨節《ほねっぷし》は稼《かせ》ぐようには造ってねえのか。親方には半文の借りもした覚えはねえからな、俺らその公事《くじ》には乗んねえだ。汝《われ》先ず親方にべなって見べし。ここのがよりも欲にかかるべえに。……芸もねえ事《こん》に可愛《めんこ》くもねえ面《つら》つんだすなてば」
 仁右衛門はまた笠井のてかてかした顔に唾をはきかけたい衝動にさいなまれたが、我慢してそれを板の間にはき捨てた。
 「そうまあ一概にはいうもんでないぞい」
 「一概にいったが何条《なじょう》悪いだ。去《い》ね。去ねべし」
 「そういえど広岡さん……」
 「汝《わり》ゃ拳固《げんこ》こと喰らいていがか」
 女を待ちうけている仁右衛門にとっては、この邪魔者の長居しているのがいまいましいので、言葉も仕打ちも段々|荒《あら》らかになった。
 執着の強い笠井も立《たた》なければならなくなった。その場を取りつくろう世辞をいって怒った風《ふう》も見せずに坂を下りて行った。道の二股《ふたまた》になった所で左に行こうとすると、闇をすかしていた仁右衛門は吼《ほ》えるように「右さ行くだ」と厳命した。笠井はそれにも背《そむ》かなかった。左の道を通って女が通って来るのだ。
 仁右衛門はまた独りになって闇の中にうずくまった。彼れは憤りにぶるぶる震えていた。生憎《あいにく》女の来ようがおそかった。怒った彼れには我慢が出来きらなかった。女の小屋に荒《あば》れこむ勢で立上ると彼れは白昼大道を行くような足どりで、藪道《やぶみち》をぐんぐん歩いて行った。ふとある疎藪《ぼさ》の所で彼れは野獣の敏感さを以て物のけはいを嗅《か》ぎ知った。彼れははた[#「はた」に傍点]と立停ってその
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