だった。十年目にはかなり広い農場を譲り受けていた。その時彼れは三十七だった。帽子を被って二重マントを着た、護謨《ゴム》長靴ばきの彼れの姿が、自分ながら小恥《こはずか》しいように想像された。
とうとう播種時《たねまきどき》が来た。山火事で焼けた熊笹《くまざさ》の葉が真黒にこげて奇跡の護符のように何所《どこ》からともなく降って来る播種時が来た。畑の上は急に活気だった。市街地にも種物商や肥料商が入込んで、たった一軒の曖昧屋《ごけや》からは夜ごとに三味線の遠音《とおね》が響くようになった。
仁右衛門は逞《たくま》しい馬に、磨《と》ぎすましたプラオをつけて、畑におりたった。耡き起される土壌は適度の湿気をもって、裏返るにつれてむせるような土の香を送った。それが仁右衛門の血にぐんぐんと力を送ってよこした。
凡《すべ》てが順当に行った。播いた種は伸《のび》をするようにずんずん生い育った。仁右衛門はあたり近所の小作人に対して二言目には喧嘩面《けんかづら》を見せたが六尺ゆたかの彼れに楯《たて》つくものは一人もなかった。佐藤なんぞは彼れの姿を見るとこそこそと姿を隠した。「それ『まだか』が来おったぞ」といって人々は彼れを恐れ憚《はばか》った。もう顔がありそうなものだと見上げても、まだ顔はその上の方にあるというので、人々は彼れを「まだか」と諢名《あだな》していたのだ。
時々佐藤の妻と彼れとの関係が、人々の噂《うわさ》に上るようになった。
一日働き暮すとさすが労働に慣れ切った農民たちも、眼の廻るようなこの期節の忙しさに疲れ果てて、夕飯もそこそこに寝込んでしまったが、仁右衛門ばかりは日が入っても手が痒《かゆ》くてしようがなかった。彼れは星の光をたよりに野獣のように畑の中で働き廻わった。夕飯は囲炉裡の火の光でそこそこにしたためた。そうしてはぶらり[#「ぶらり」に傍点]と小屋を出た。そして農場の鎮守《ちんじゅ》の社の傍の小作人集会所で女と会った。
鎮守は小高い密樹林の中にあった。ある晩仁右衛門はそこで女を待ち合わしていた。風も吹かず雨も降らず、音のない夜だった。女の来ようは思いの外《ほか》早い事も腹の立つほどおそい事もあった。仁右衛門はだだっ広い建物の入口の所で膝《ひざ》をだきながら耳をそばだてていた。
枝に残った枯葉が若芽にせきたてられて、時々かさっと地に落ちた。天鵞絨《ビロード》
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