なかった。赤坊は泣きづかれに疲れてほっぽり出されたままに何時《いつ》の間にか寝入っていた。
 居鎮《いしず》まって見ると隙間《すきま》もる風は刃《やいば》のように鋭く切り込んで来ていた。二人は申合せたように両方から近づいて、赤坊を間に入れて、抱寝《だきね》をしながら藁の中でがつがつと震えていた。しかしやがて疲労は凡《すべ》てを征服した。死のような眠りが三人を襲った。
 遠慮会釈もなく迅風《はやて》は山と野とをこめて吹きすさんだ。漆《うるし》のような闇が大河の如《ごと》く東へ東へと流れた。マッカリヌプリの絶巓《ぜってん》の雪だけが燐光を放ってかすかに光っていた。荒らくれた大きな自然だけがそこに甦《よみがえ》った。
 こうして仁右衛門夫婦は、何処《どこ》からともなくK村に現われ出て、松川農場の小作人になった。

   (二)

 仁右衛門の小屋から一町ほど離れて、K村から倶知安《くっちゃん》に通う道路添《みちぞ》いに、佐藤与十という小作人の小屋があった。与十という男は小柄で顔色も青く、何年たっても齢《とし》をとらないで、働きも甲斐《かい》なそうに見えたが、子供の多い事だけは農場一だった。あすこの嚊《かかあ》は子種をよそから貰《もら》ってでもいるんだろうと農場の若い者などが寄ると戯談《じょうだん》を言い合った。女房と言うのは体のがっしりした酒喰《さけぐら》いの女だった。大人数なために稼《かせ》いでも稼《かせ》いでも貧乏しているので、だらしのない汚い風はしていたが、その顔付きは割合に整っていて、不思議に男に逼《せま》る淫蕩《いんとう》な色を湛《たた》えていた。
 仁右衛門がこの農場に這入《はい》った翌朝早く、与十の妻は袷《あわせ》一枚にぼろぼろの袖無《そでな》しを着て、井戸――といっても味噌樽《みそだる》を埋めたのに赤※[#金へんに繍の正字の右側、19−5]《あかさび》の浮いた上層水《うわみず》が四分目ほど溜ってる――の所でアネチョコといい慣わされた舶来の雑草の根に出来る薯《いも》を洗っていると、そこに一人の男がのそりとやって来た。六尺近い背丈《せい》を少し前こごみにして、営養の悪い土気色《つちけいろ》の顔が真直に肩の上に乗っていた。当惑した野獣のようで、同時に何所《どこ》か奸譎《わるがしこ》い大きな眼が太い眉の下でぎろぎろと光っていた。それが仁右衛門だった。彼れは与十の妻
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