更に声を低くした時、私は云うに云われぬ一種の恐ろしい期待を胸に感じて心を騒がさずには居られなかった。
 ヤコフ・イリイッチは更めて周囲を見廻わして、
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気の早い野郎だ……宜いか、是れからが話だよ、……イフヒムの云うにゃ其の人間って獣にしみじみ愛想が尽きたと云うんだ。人間って奴は何んの事は無え、贅沢三昧をして生れて来やがって、不足の云い様は無い筈なのに、物好きにも事を欠いて、虫手合いの内懐まで手を入れやがる。何が面白くって今日今日を暮して居るんだ。虫って云われて居ながら、それでも偶にゃ気儘な夢でも見ればこそじゃ無えか……畜生。
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 ヤコフ・イリイッチはイフヒムの言った事を繰返して居るのか、己れの感慨を漏らすのか解らぬ程、熱烈な調子になって居た。
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畜生。其奴を野郎見付ければひったくり、見付ければひったくりして、空手にして置いて、搾り栄がしなくなると、靴の先へかけて星の世界へでも蹴っ飛ばそうと云うんだ。慾にかかってそんな事が見えなくなったかって泣きやがった……馬鹿。
馬鹿。己れを幾歳だと思って居やがるんだ。虫っけらの眼から贅沢水を流す様な事をして居やがって、憚りながら口幅ってえ事が云える義理かい。イフヒムの奴も太腐れて居やがる癖に、胸三寸と来ちゃからっきし乳臭《うぶ》なんだ。
だが彼奴の一念と来ちゃ油断がなら無え。
宜いか。
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 又肩からもたれかかる様にすり寄って、食指で私の膝を念入に押しながら、
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宜いか、今日で此の船の※[#「金+肅」、第3水準1−93−39]落しも全然《すっかり》済む。
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 斯う云って彼は私の耳へ口を寄せた。
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全然済むんでグリゴリー・ペトニコフの野郎が検分に船に来やがるだろう。
イフヒムの奴、黙っちゃ居無え筈だ。
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 私は「黙っちゃ居ねえ」と云う簡単な言葉が、何を言い顕わして居るかを、直ぐ見て取る事が出来た。余りの不意に思わず気息を引くと、迸る様に鋭く動悸が心臓を衝くのを感じた。而してそわそわしながら、ヤコフ・イリイッチの方を向くと、彼の眼は巖の様な堅い輪廓の睫の中から、ぎらっと私を見据えて居た。思わず視線をすべらして下を向くと、世の中は依然として夏の光の中に眠った様で、波は相変らずちゃぶりちゃぶりと長閑な階律《リズム》を刻んで居る。
 私は下を向いた儘、心は差迫りながら、それで居て閑々として、波の階律に比べて私の動悸が何の位早く打つかを算えて居た。而してヤコフ・イリイッチが更に語を次いだのは、三十秒にも足らぬ短い間であったが、それが恐ろしい様な、待ち遠しい様な長さであった。
 私は波を見つめて居る。ヤコフ・イリイッチの豹の様な大きな眼睛は、私の眼から耳にかけたあたりを揉み込む様に見据えて居るのを私はまざまざと感じて、云うべからざる不快を覚えた。
 ヤコフ・イリイッチは歯を喰いしばる様にして、
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お前も連帯であげられ無えとも限ら無えが、「知ら無え知ら無え」で通すんだぞ、生じっか……
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 此の時ぴーと耳を劈く様な響きが遠くで起った。其の方を向くと船渠《ドック》の黒い細い煙突の一つから斜にそれた青空をくっきりと染め抜いて、真白く一団の蒸気が漂うて居る。ある限りの煉瓦の煙突からは真黒い煙がむくむくと立ち上って、むっとする様な暑さを覚えしめる。労働を強うる為めに、鉄と蒸気とが下す命令である。私は此の叫びを聞いて起き上ろうとすると、
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待て。
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とヤコフ・イリイッチが睨み据えた。
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きょろきょろするない。
宜いか、生じっか何んとか云って見ろ、生命は無えから。 
長げえ身の上話もこの為めにしたんだ。
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と云いながら、彼は始めて私から視線を外ずして、やおら立ち上った。胴の間には既に眼を覚したものが二三人居る。
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起きろ野郎共、汽笛が鳴ってらい。さ、今日ですっかり片付けて仕舞うんだ。
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 而して大欠伸をしながら、彼は寝乱れた労働者の間を縫って、オデッサ丸の船階子を上って行った。
 私も持場について午後の労働を始めた。最も頭脳を用うる余地のない、而して最も肉体を苦しめる労働はかんかん虫のする労働である。小さなカンテラ一つと、形の色々の金槌二つ三つとを持って、船の二重底に這い込み、石炭がすでに真黒になって、油の様にとろりと腐敗したままに溜って居る塩
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