状を出した。室長の気の毒な薄い影が当分の間は私の眼先にこびりついてゐた。が、愕然《がくぜん》としてわれに返ると、余り怠《なま》けた結果、私は六科目の注意点を受けてゐたので、俄《にはか》に狼狽《ろうばい》し切つた勉強を始め、例の便所の入口の薄明の下に書物を披《ひら》いて立つたが、さうしたことも、何物かに媚《こ》び諂《へつら》ふ習癖、自分自身にさへひたすらに媚び諂うた浅間しい虚偽の形にしか過ぎないのであつた。

 辛うじて進級したが、席次は百三十八番で、十人の落第生が出たのだから、私が殆どしんがりだつた。
「貴様は低能ぢやい、脳味噌がないや、なんぼ便所《せんち》で勉強したかつて……」
 学年始めの式の朝登校すると、控所で一《ひ》と塊《かたまり》になつて誰かれの成績を批評し合つてゐた中の一人が、私を弥次《やじ》ると即座に、一同はわつ[#「わつ」に傍点]と声を揃《そろ》へて笑つた。
 二年になると成績のよくないものとか、特に新入生を虐《いぢ》めさうな大兵《だいひやう》なものとかは、三年生と一緒に東寮に移らなければならなかつたが、私は運よく西寮に止まり、もちろん室長でこそなかつたにしろ、それでも一年生の前では古参として猛威を揮《ふる》ふ類に洩《も》れなかつた。室長は一年の時同室だつた父親が県会議員の佐伯《さへき》だつた。やはり一年の時同室だつた郵便局長の倅《せがれ》は東寮に入れられて業腹《ごふはら》な顔をしてゐた。或日食堂への行きずりに私の袖《そで》をつかまへ、今日われ/\皆で西寮では誰と誰とが幅を利《き》かすだらうかを評議したところ、君は温順《おとなし》さうに見えて案外新入生に威張る手合だといふ推定だと言つて、私の耳をグイと引つ張つた。事実、私はちんちくりんの身体の肩を怒らせ肘《ひぢ》を張つて、廊下で行き違ふ新入生のお辞儀を鷹揚《おうやう》に受けつゝ、ゆるく大股《おほまた》に歩いた。さうして鵜《う》の目《め》鷹《たか》の目《め》であら[#「あら」に傍点]を見出し室長の佐伯に注進した。毎週土曜の晩は各室の室長だけは一室に集合して、新入生を一人々々呼び寄せ、いはれない折檻《せつかん》をした。私は他の室長でない二年生同様にさびしく室《へや》に居残るのが当然であるのに、家柄と柔道の図抜けて強いこととで西寮の人気を一身にあつめてゐる佐伯の忠実な、必要な、欠くべからざる腰巾着《こしぎんちやく》として鉄拳制裁や蒲団蒸しの席につらなることが出来た。一番にも二番にも何より私は佐伯の鼻意気を窺《うかゞ》ひ、気に入るやう細心に骨折つてゐた。
 或日、定例の袋敲《ふくろだゝ》きの制裁の席上、禿《はげ》と綽名《あだな》のある生意気な新入生の横づらを佐伯が一つ喰はすと、かれはしく/\泣いて廊下に出たが、丁度、寮長や舎監やの見張番役を仰付《おほせつ》かつて扉の外に立つてゐた私は、かれが後頭部の皿《さら》をふせたやうな円形の禿《はげ》をこちらに見せて、ずんずん舎監室のはうへ歩いて行つたのを見届け、確かに密告したことを直観した。私はあとでそつと禿を捉へ、宥《なだ》め賺《すか》し、誰にも言はないから打明けろと迫つて見たが、禿は執拗《しつえう》にかぶりを掉《ふ》つた。次の日も又次の日も、私は誰にも言はないからと狡《ずる》い前置をして口説《くど》いたすゑ、やつと白状させた。私はほく/\と得たり顔して急ぎ佐伯に告げた。赫怒《かくど》した佐伯に詰責されて禿は今度はおい/\声を挙げて泣き出し、掴《つか》まへようとした私から滑り抜けて飛鳥のやうに舎監室に走つた。三日おいて其日は土曜の放課後のこと、舎監室で会議が開かれ、ピリ/\と集合合図の笛を吹いて西寮の二年生全部を集めた前で、旅行中の校長代理として舎監長の川島先生が、如何《いか》に鉄拳制裁の野蛮行為であるかを諄々《じゆん/\》と説き出した。川島先生が息を呑《の》む一瞬のあひだ身動きの音さへたゝず鎮《しづ》まつた中に、突然佐伯の激しい啜《すゝ》り泣《な》きが起つた。と、他人《ひと》ごとでも見聞きするやうにぽツんとしてゐた私の名が、霹靂《へきれき》の如くに呼ばれた。
「一歩前へツ!」休職中尉の体操兼舎監の先生が行《い》き成り私を列の前に引《ひ》き摺《ず》り出した。
「き、き、君の態度は卑怯《ひけふ》だ。甚《はなは》だ信義《すんぎ》を欠く。た、た、誰にも言はぬなんて、実《づつ》ーに言語道断であるんで、ある。わすはソノ方を五日間の停学|懲戒《ちようけい》に処する。佐伯も処分する考《かん》げえであつたが、良心の呵責《かしやく》を感ずて、今こゝで泣いだがら、と、と、特別に赦《ゆる》す!」
 二度といふ強度の近眼鏡を落ちさうなまで鼻先にずらした、鼠そつくりの面貌をした川島先生の、怒るとひどく吃《ども》る東北弁が終るか、前前日の午前の柔道の時間に
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