途上
嘉村礒多
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)渚《なぎさ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二六時中|蒼白《あをじろ》い
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いち/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
*半濁点付きの二倍の踊り字は「/゜\」
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六里の山道を歩きながら、いくら歩いても渚《なぎさ》の尽きない細長い池が、赤い肌《はだ》の老松の林つゞきの中から見え隠れする途上、梢《こずゑ》の高い歌ひ声を聞いたりして、日暮れ時分に父と私とはY町に着いた。其《その》晩は場末の安宿に泊り翌日父は私をY中学の入学式につれて行き、そして我子を寄宿舎に托《たく》して置くと、直《す》ぐ村へ帰つて行つた。別《わか》れ際《ぎは》に父は、舎費を三ヶ月分納めたので、先刻《さつき》渡した小遣銭《こづかひせん》を半分ほどこつちに寄越《よこ》せ、宿屋の払ひが不足するからと言つた。私は胸を熱くして紐《ひも》で帯に結びつけた蝦蟇口《がまぐち》を懐《ふところ》から取出し、幾箇かの銀貨を父の手の腹にのせた。父の眼には涙はなかつたが、声は潤《うる》んでゐてものが言へないので、私は勇気を鼓して「お父《と》う、用心なさんせ、左様なら」と言つた。眼顔で頷《うなづ》いて父は廊下の曲り角まで行くと、も一度振り返つてぢつと私を見た。
「おい君、君は汁《しる》の実の掬《すく》ひやうが多いぞ」
と、晩飯の食堂で室長に私は叱《しか》られて、お椀《わん》と杓子《しやくし》とを持つたまゝ、耳朶《みゝたぶ》まで赧《あか》くなつた顔を伏せた。
当分の間は百五十人の新入生に限り、朝毎《あさごと》をかしいぐらゐ早目に登校して、西側の控所に集まつた。一見したところ、それ/″\試験に及第して新しい制服制帽、それから靴を穿《は》いてゐることが十分得意であることは説くまでもないが、でも私と同じやうに山奥から出て来て、寄宿舎に入れられた急遽な身の変化の中に、何か異様に心臓をときめかし、まだズボンのポケットに手を入れることも知らず、膝坊主《ひざばうず》をがたがた顫《ふる》はしてゐる生徒も沢山に見受けられた。一つは性質から、一つは境遇から、兎角《とかく》苦悩の多い過去が、ほんの若年ですら私の人生には長く続いてゐた。それは入学式の日のことであるが、消魂《けたゝま》しいベルが鳴ると三人の先生が大勢の父兄たちを案内して控所へ来、手に持つた名簿を開けていち/\姓名を呼んで、百五十人を三組に分けた。私は三ノ組のびりつこから三番目で、従つて私の名が呼ばれるまでには夥《おびたゞ》しい時間を要した。或《あるひ》は屹度《きつと》、及第の通知が間違つてゐたのではないかと、愬《うつた》へるやうにして父兄席を見ると、木綿の紋付袴《もんつきはかま》の父は人の肩越しに爪立《つまだ》ち、名簿を読む先生を見詰め子供の名が続くかと胸をドキつかせながら、あの、嘗《かつ》て小学校の運動会の折、走つてゐる私に堪《たま》りかねて覚えず叫び声を挙《あ》げた時のやうな気が気でない狂ひの発作が、全面の筋肉を引き吊《つ》つてゐた。その時の気遣ひな戦慄《せんりつ》が残り、幾日も幾日も神経を訶《さいな》んでゐたが、やがて忘れた頃には、私は誰かの姿態の見やう見真似《みまね》で、ズボンのポケットに両手を差し、隅《すみ》つこに俯向《うつむ》いて、靴先でコト/\と羽目板を蹴《け》つて見るまでに場馴《ばな》れたのであつた。二年前まではこの中学の校舎は兵営だつたため、控所の煉瓦敷《れんぐわじき》は兵士の靴の鋲《びやう》や銃の床尾鈑《しやうびばん》やでさん/″\破壊されてゐた。汗くさい軍服の臭《にほ》ひ、油ツこい長靴の臭ひなどを私は壁から嗅《か》ぎ出した。
日が経《た》つにつれ、授業の間の十分の休憩時間には、私は控所の横側の庭のクローウヴァーの上に坐つて両脚を投げ出した。柵外《さくぐわい》の道路を隔てた小川の縁の、竹藪《たけやぶ》にかこまれた藁屋根《わらやね》では間断なく水車が廻り、鋼鉄の機械鋸《きかいのこ》が長い材木を切り裂く、ぎーん、ぎん/\、しゆツ/\、といふ恐ろしい、ひどく単調な音に、そしてそれに校庭の土手に一列に並んでゐる松の唸《うな》り声《ごゑ》が応じ、騒がしい濤声《たうせい》のやうに耳の底に絡《から》んだ。水車が休んでゐる時は松はひとりで淋《さび》しく奏《かな》でた。その声が屡々《しば/\》のこと私を、父と松林の中の道を通つて田舎《ゐなか》から出て来た
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