も憎み足りない私であつても八年の間|良人《をつと》と呼んだのだから、憎んでも憎《にく》み甲斐《がひ》なく、悪口言つて言ひ甲斐もないことなのである。失敗しないやう陰ながら贔屓《ひいき》に思つて念じてくれてゐるに違ひないのだ。たとひ肉体の上では別々になつてゐても一人の子供を、子を棄てる藪《やぶ》はあつても身を棄てる藪はないと言つて妻に逃げ出されて後は、ひとり冷たい石を抱くやうにして育つて行つてゐる子供を中にして、真先に思はれるものは、私の妻として、現在同棲の女でなく、初恋の雪子でもなく、久離切つて切れない静子であるのだから。いとし静子よ! と私は絶えて久しい先妻の本名を口に出して呼ぶのであつた。お前の永遠の良人は僕なのだから――と私は声をあげて叫び掛け、悲しみを哀訴し強調するのであつた。行く手の木立の間から幾箇もの列車の箱が轟々《ぐわう/\》と通り過ぎ、もく/\と煙のかたまりが梢の上にたなびいてをるのを私は間近に見てゐて、そこの停車場を目指す自身の足の運びにも気づかず、芋畠のまはりの環《わ》のやうな同じ畦道《あぜみち》ばかり幾回もくる/\と歩き廻つてゐるのであつた。一種|蕭条《せうでう》たる松の歌ひ声を聞き乍ら。
[#地から2字上げ](昭和七年二月)



底本:「現代日本文學大系 49」筑摩書房
   1973(昭和48)年2月5日初版第1刷発行
   2000(平成12)年1月30日初版第13刷発行
初出:「中央公論」
   1932(昭和7)年2月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:岡本ゆみ子
校正:林 幸雄
2009年5月22日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全30ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
嘉村 礒多 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング