に導かれて検閲課の室に入ると、柿のやうに頭の尖《と》がんだ掛員は私に椅子《いす》をすゝめて置いて、質素な鉄縁眼鏡に英字新聞を摺《す》りつけたまゝ、発禁の理由は風俗|紊乱《びんらん》のかどであることを告げて、極めて横柄な事務的の口調で忠告めいたことを言ひ渡した。私はたゞもう、わな/\慄《ふる》へながら、はあ、はあ、と頷いて聞き終ると一つお叩頭《じぎ》をして引き退つた。また修一に掴まりさうで、私は俯向いて廊下を小走り、外へ出ても傍目《わきめ》もふらず身体を傾けて舗道を急いだ。
雑誌の盟主であるR先生の相模《さがみ》茅《ち》ヶ|崎《さき》の別荘に、その日同人の幹部の人達が闘花につめかけてゐるので、私は一刻も早く一部始終を報告しようと思つて、その足で東京駅から下り列車に乗つた。私は帽子を網棚に上げ、窓枠に肘《ひぢ》を凭《もた》せ、熱した額を爽《さは》やかな風に当てた。胸には猶苦しい鼓動が波立つてゐた。眼を細めて、歯を合せて、襲ひ寄るものを払ひ除けようとしてゐた。
反《そり》の合はない数多い妻の弟達の中で、この修一だけは平生から私を好いてゐた。大震災の年に丁度上京してゐた私を頼つて修一も上京し、新聞配達をしつゝ予備校に通つてゐたが、神田で焼き出されて本郷の私の下宿に遁《のが》れて来た。火に迫られて下宿の家族と一しよに私が駒込西ヶ原へ避難する時、修一は私の重い柳行李《やなぎがうり》を肩に舁《かつ》いでくれたりした。私は修一の言葉遣や振舞の粗野を嫌ひ、それに私自身も貧乏だつたので、宥《なだ》めすかして赤羽から国へ発たせたが、汽車の屋根に腹伏せになつて帰つたといふ通知を受けたときは、私は彼を厄介視した無慈悲が痛く心を衝いた。修一は私が下宿の娘と大そう仲がいゝとか、着物の綻《ほころ》びを縫つて貰つてゐるとか妻に告口したので、間もなく帰国した私に、「独身に見せかけて、わたしに手紙を出させんといて、へん、みな知つちよるい!」と、妻は炎のやうな怨みを述べたのであつた。
自分が妻や、妻の弟妹達に与へた打撃、あれほど白昼堂々と悪いことをして置いて、而《しか》も心から悪いと項垂《うなだ》れ恐れ入ることをしない私なのである。何んと言ふなつてない人間だらう? 現に先程修一にぶつかつた場合の、あの身構へ、あの白々しさ、あの鉄面皮と高慢――電気に触れたやうにさう思へた刹那《せつな》、私は悚然《しよ
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