と耳を澄ましてゐる時、この支那蕎麥屋の笛を聞いて、われを忘れて慟哭《どうこく》したといふのである。千登世にしてみれば、別れろ/\と攻め立てられてG師の前に弱つて首垂《うなだ》れてゐる圭一郎がいぢらしくもあり、恨めしくもあり、否、それにも増して、暗い過去ではあつたがどうにか弱い身體と弱い心とを二十三歳の年まで潔《きよ》く支へて來た彼女が、選りも選んで妻子ある男と駈落ちまでしなければならなくなつた呪うても足りない宿命が、彼女にはどんなにか悲しく、身を引き裂きたい程切なかつたことであらう……。
支那蕎麥屋は家の前のだら/\坂をガタリ/\車を挽いて坂下の方へ下りて行つたが、笛の音だけは鎭まつた空氣を劈《つんざ》いて物哀しげに遙かの遠くから聞えて來た。一瞬間、何んだか北京とか南京とかさうした異郷の夜に、罪業の、さすらひの身を隱して憂念愁怖の思ひに沈んでゐる自分達であるやうにさへ想へて、圭一郎もうら悲しさ、うら寂しさが骨身に沁みた。
「もう寢なさい」と圭一郎は言つた。
「えゝ」
と答へて千登世は縫物を片付け、ピンを拔き髮を解《ほぐ》し、寢卷に着替へようとしたが、圭一郎は彼女の窶《やつ》れた裸姿を見ると今更のやうにぎよつとして急いで眼を瞑《つぶ》つた。
圭一郎の月給は當分の間は見習ひとして三十五圓だつた。それでは生活を支へることがむづかしいので不足の分は千登世の針仕事で稼ぐことになり「和服御仕立いたします」と書いた長方形の小さなボール紙を階下の路地に面した戸袋に貼りつけた。幸ひ近所の人達が縫物を持つて來てくれたのでどうにか月々は凌《しの》げたが、その代り期日ものなどで追ひ攻められて徹夜しなければならないため、千登世の健康は殆ど臺なしだつた。
「こんなに髮の毛がぬけるのよ」
千登世は朝髮を梳《す》く時ぬけ毛を束にして涙含み乍ら圭一郎に見せた。事實、彼女の髮は痛々しい程減つて、添へ毛して七三に撫でつけて毳《むくげ》を引き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《む》しられた小鳥の肌のやうな隙間が見えた。圭一郎の心の底から深い憐れさが沁み出して來るのであつたが、彼女の涙も度重なると、時には自分達の存在が根柢から覆へされるやうな憤りさへ覺えた。さう言つて責めてくれるな! と哀訴したいやうな、苦しいのはお互ひさまではないか! と斯う彼女の弱音に荒々しい批難と突つ慳貪《けんどん》
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