潜るやうにして走つたり、又暫らく銀行の石段で雨宿りしたりしてゐたが、思ひ切つて鈴成りに混《こん》だ電車に乘つた時は圭一郎は濡れ鼠のやうになつてゐた。停留所には千登世が迎へに出て土砂降の中を片手で傘を翳《かざ》し片手で裾を高く掻きあげて待つてゐた。そして、降車口に圭一郎のずぶ濡れ姿を見つけるなり、千登世は急ぎ歩み寄つて、
「まあ、お濡れになつたのね」と眉根に深い皺を刻んで傷々《いた/\》しげに言つた。
 圭一郎は千登世の傘の中に飛び込むと、二人は相合傘で大學の正門前の水菓子屋の横町から暗い路地に這入つて行つた。歩きながら圭一郎は酒新聞社での樣子をこま/″\千登世に話して聽かせた。
「とに角、明日も一度來て見ろと言つたんですよ」
「ぢや、屹度《きつと》、雇ふ考へですよ」
と彼女は言つたが、これまで屡繰り返されたと同じやうな空頼みになるのではあるまいかといふ豫感の方が先に立つて千登世はそれ以上ものを言ふのが辛かつた。
「雇つてくれるかもしれん……」
 圭一郎は口の中で呟いた。けれ共、頼み難いことを頼みにし獨り決めして置いて、後で又しても千登世を失望させてはと考へた。さう思へば思ふ程、金縁眼鏡の男がうらめしかつた。
「ほんたうに雇つてくれるといゝが……」
 圭一郎は思はず深い溜息を洩らした。
「悄氣《しよげ》ちや駄目ですよ、しつかりなさいな」
 斯う千登世は氣の張りを見せて圭一郎に元氣を鼓舞《つけ》ようとした。が、濡れしをれた衣服の裾がべつたり脚に纒つて歩きにくさうであり、長く伸びた頭髮からポトリ/\と雫の滴《したゝ》る圭一郎のみじめな姿を見た千登世の眼には、夜目にも熱い涙の玉が煌《きら》めいた。
 運好く採用されたのだつたが、千登世はその夜のことを何時までも忘れなかつた。「わたし泣いてはいけないと思つたんですけれど、あの時――だけは悲しくて……」彼女は思ひ出しては時々それを口にした。
 千登世は食後の後片づけをすますと、寛《くつろ》いだ話もそこ/\に切り上げ暗い電燈を眼近く引き下して針仕事を始めた。圭一郎は檢温器を腋下に挾んでみたが、まだ平熱に歸らないので直ぐ寢床に這入つた。
 壁一重の隣家の中學生が頓狂な發音で英語の復習をはじめた。
 What a funy bear !
「あゝ煩さい。もつと小さな聲でやれよ」兄の大學生らしいのが斯う窘《たしな》める。
 中學生は一向平
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