き上げねばならなかつた。
「もう、いいだらう。」
「えゝ、十分ですとも。いろいろ見せて頂いて、どうも有り難うございました。」
と、ユキは改まつた口調でお禮を言つた。
 別莊から立ち昇る夕餉の煙を見ては、ユキは、何がなし氣忙《きぜは》しい氣持になる。早く吾家へ歸りたいと言つた。
 滑川《なめりがは》の畔まで來かかつて、海岸橋下の葦の中に蹲んで釣を垂れてゐる若者を、二人は渚に立つて見てゐた。はツと思ふと竿がまん圓くたわんで、薄暮に銀鱗が光つて跳ね上つた。
「あなたにも、ああした日が來るでせうか、わたしは、わたし達が東京にゐられなくなつたら、わたしの生れ故郷に歸つて、小商賣かお針の塾でも開いて、あなたには毎日釣をさしてあげたいの。そんな安息の日は來ないでせうか。」と、ユキはしみじみと言つた。
「けどね、時偶《ときたま》一日かうした生活を見ると羨ましいが、ぢきに退屈するよ。退屈なり寂寥を拒ぐための鬪ひだよ!」と、私は言下に否定した。
「それもさうですね。兎に角、將來、田舍へ歸るとでも、東京に踏みとどまるとでも、わたしは、あなたの意志通りになりますから。」
 まだまだ、これから流轉が續く自分達の
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