けを呼び求めている声が空耳に聞えて来るのでした。幾人《いくたり》も幾人《いくたり》も、細い悲しげな声を合せて、呼んでいるように為吉の耳に聞えました。何だか聞き覚えのある声のようにも思われました。一カ月|前《まえ》に難船して死んだ村の人達の声のような気もしました。為吉は身をすくめました。糸を引くような細い声は、絶えたかと思うと、また続きました。その声はどこか海の底か、空中かから来るような気がしました。為吉は一心になって耳をすましました。
いつの間にか入江の口にも波が立って来ました。自分の乗っている船腹に打ちつける潮《しお》のぴたぴたする音が高くなって、舟は絶えず、小さな動揺を続けました。
突然、恰《あだか》もこれから攻めよせて来る海の大動乱を知らせる先触れのよう、一きわ、きわだった大きな波が、二三|畝《うね》どこからともなく起って、入江の口へ押しよせました。それが次第に近寄って、むくむくと大蛇《だいじゃ》が横に這《は》うように舟の舳《へさき》へ寄って来たかと思うと、舳を並《なら》べていた小舟は一斉《いっせい》に首をもたげて波の上に乗りました。一|波《ぱ》また一|波《ぱ》、甚《はなはだ》しい動揺と共に舷《ふなばた》と舷とが強く打ち合って、更に横さまに大揺れに揺れました。
「わあッ!」という叫び声がしたかと思うと、もう為吉の姿は舳に見えませんでした。最後の波は岸に打ちあげて、白い泡《あわ》を岸の岩の上に残して退きました。
午後三時|頃《ごろ》の夏の熱い太陽が、一団の灰色雲の間からこの入江を一層《いっそう》暑苦しく照らしていました。鳶が悠々《ゆうゆう》と低い空を翅《かけ》っていました。
夕暮方に、この浜には盛んな藁火《わらび》の煙があがりました。それは為吉の死骸《しがい》をあたためるためでした。為吉の父も母も、その死骸に取りすがって泣いていました。
その頃から空が曇り、浪が高く海岸に咆哮《ほうこう》して、本当の大暴風《おおあらし》となって来ました。
底本:「赤い鳥傑作集」新潮文庫、新潮社
1955(昭和30)年6月25日発行
1974(昭和49)年9月10日29刷改版
1989(平成元)年10月15日48刷
底本の親本:「赤い鳥」復刻版、日本近代文学館
1968(昭和43)〜1969(昭和44)年
初出:「赤い鳥」
1920(大正9)年8月号
入力:林 幸雄
校正:鈴木厚司
2001年8月27日公開
2005年9月25日修正
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