らかの理由で休むだろう一年の五、六日を、私はただ山登りに利用するというまでなのである。日曜と休日をいかに組み合わすべきかは、従って、私の山行の企画における最も重要な鍵点である。
山行の経済はまた私にとって相当の問題を提供する。しかしこれは他人の考えるほどには私にとって問題ではない。私は要するにごく簡単なのである。山よりほかに金の費い途を知らないのだから、それに、私の山行ではガイドやポーターといったものにいささかの支払いもなくてすむし、食糧にしろ他の道具にしろ普通の人から見ればごく簡単なものでよい。
私はしばしば山に登った。が、多くの人々とともに計画し、登山したことははなはだ稀だ。私には独りで登山しても充分の満足が得られるのだし、殊更に他の人を交えてお互いに気兼ねし合う必要はないのだから。
私はしばしば山に登ったし、また今後も登って行きたい。そしてとにかく私は信じている、山は、山を本当に愛するものすべてに幸を与えてくれるものだと。
2
今、AとBの二人が、ある氷と岩との殿堂を攀じていると想像し給え。Aは百戦功を経たエクスパートであり、Bは初めて氷にアックスを揮うビギナーである。
Aのステップは簡単で浅く、軽いリズムでドンドンと登って行くに反して、Bの不安は彼のステップを歩一歩深く切り下げさせ、慎重に慎重を重ねた重いリズムで徐々に登って行く。
岩場においてもAのリズムはあくまで軽やかに、僅かのホールドに安んじて彼の体躯を進ませ、Bはあちこちとルートを考え求めて、安心のできるところに至って初めて自重しながら登高する。
Aはエクスパートであり、常に落着いた心境に安住して軽い気持で登って行き、Bは同じく澄み切った心境にあるといえ、ともすればその一隅に潜むビギナーなるための不安に脅かされて、重い気持の圧迫から自重の上になおも自重を重ねさされる。このとき、――Aがもしエクスパートのパーティであり、Bがビギナーの単独行ででもあった際は一層――事実においては世の登山家たちから「独りで? 乱暴な!」との非難を避けずにはいられないものなのである。
しかし、このように「安全性」の原点よりしてある人の山登りを観察し、それに対してなんらかの批判を下し得るものとして、考えて見給え、Aはこの際果してBよりも常に安全であり得るか、どうか? そして、Bはバランスの不足を補う
前へ
次へ
全117ページ中42ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
加藤 文太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング