たりしないで、できるだけ眠る方がよいと思った。もちろん眠る前には充分カロリーをとっておく必要がある。
        ×
 一眠りして目のさめたときは吹雪はますます勢いを増してきて、着ている合羽がバタバタと音を立てていた。その後は涸沢岳の壁に衝《あた》る物凄い音を聞きながらうつらうつらとしている。何度目を開けてみても夜が明けない。あまり長いので、あるいは夜が明けているのだが雪目か何かにかかって目が見えなくなっているのではなかろうかなどと考えたりする。また古い記憶を辿ってみると、涸沢岳への登りはだいぶ悪場があったような気がする。こんなひどい吹雪の日にそこを通過するのは困難ではなかろうか、むしろ涸沢岳直下の雪の斜面を巻いて穂高の小屋へ行くコースの方が安全ではなかろうか、などと考えたりする。しかしまた、雪崩の最もよく出るのはこんな吹雪の日のようだし、ことに涸沢岳の直下あたりは急傾斜の岩場がたくさんあるので始終雪崩ているようにも思われる。では吹雪のやむまでここで待とうか、いや一日や二日でこの吹雪が止むとはきまっていない。三日も四日もこれがつづいたとすればこのままの状態でいられるかどうかうたがわしい。足でも凍傷にかかろうものならほんとに動けなくなるかも知れない。そうだ全く忘れていた――「なんのために山にきたのか」ということを。自分は「山と闘うためにきた」のではないか。なぜ岩を恐れ、氷を恐れ吹雪を恐れてこれらの姑息《こそく》な手段を考えるのか。吹雪の日の涸沢岳の尾根こそ久しく求めて止まなかったところではないか。さあ立ち上がろう、立ち上がろうと勇を鼓して吹雪をついた。

    B 前穂高北尾根(昭和九・四・三)

 前穂高北尾根第三峰のチムニーの中に掘った雪のトンネルで岳友吉田君と二人、場所柄実に寒い露営地で一夜を過した思い出である。
 この日は早朝朝焼けがしていて、間もなく天候が崩れることはわかっていたが、尾根へ出れば吹雪いたとてひとすじ路のうえ、雪崩の心配もないのだからと思い切って出発した。この年(昭和九年の春)は恐ろしく大雪が降った年で、四月の三日にもなっているのに真冬と同様の天候がつづき、涸沢谷の雪は昨日一日の快晴にもなんらの変化をみせないほどで、涸沢谷の下りは実に愉快であった。その代り、スキーをぬげばワカンをはいてなお腰までももぐり、五、六の鞍部への急な登りにはピッケ
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