な平げて行ってしまった。
 大山――僅か五六五二尺の山だが、偃松《はいまつ》があるのと眺望の雄大なのに驚いた。
 船上山――さすがは有名な史蹟だ。秩父宮様の行啓の碑があった。
 白山――白山を縦走してやろうと思って尾添から美女坂道を登ることにした。ところが地図には堂々と道があるが、行ってみると炭焼の道が途中まであるきりで、トテモ通れない。その中を私は一生懸命に歩き廻ったが、結局は後戻りだった。この日一日オジャンになってしまったが、私がよく調べて行かなかったのが悪いので誰をうらむわけにもいかぬ。さて地図には書いてないが、岩間温泉から登山道ができていることがわかり、すぐにこれを登って温泉へきてみると人がいない。仕方がないから引返して途中の山小屋に泊めてもらった。この日は白山祭でたいていの小屋の人は村へ下山していたが、ここの人々は養蚕をやっておられたので、幸いに泊めてもらうことができた。なんでも大津で暮しておられたが、主人が脚気にかかり、やむを得ずこの故郷に帰っておられるとのことだった。それから山の話や、熊は逃げるのが早く高いところにはいないので岩間温泉附近に一番多くいるとか、長いあいだいいお天気がつづいたから明日は雨かも知れない、もし雨が降れば山は風もつよく危険である等と種々話された。翌日はやっぱり雨だったし気持の悪い風も吹いていた。主人はもし危険だと思ったら引返しなさいと言って、昨日のラッセルでワラジが一つ無くなっているのを見て無い中から作って下さった。雪渓が多いのと風雨が強かったので相当苦心したが、無事白山の絶頂を極め得たことをこの人人に感謝してやまない。ただ小さいお金が無くて壱円なにがししか置けなかったのと、名刺を置いたが名前を聞かなかったことを心残りに思っている。
 昔の穂高連峰――殺生小屋で、あるリーダーが昔の穂高連峰は最も恐しい山で、今の北鎌尾根以上であって、その頃他のリーダー等と穂高縦走をやったが、その日は大変荒れて雨が降り風も吹いたため、尾根を取違えて迷い廻ったこと三日間、いかな山男も運を天にまかせてしまったほどだと言っていた。しかし幸い彼の喜作新道の開発者喜作様が心配してきて救い出してくれたという。この喜作様は冬猟のとき雪崩のため小屋もろとも埋められて死んだそうだが、喜作様の名前は西岳連峰縦走道によって長く伝えられるだろう。
 今の穂高連峰――昨年私が
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