ない人にだまってついてこられると誰だってちょっと不愉快になるのですよ――と親切に言ってくれました。それで僕は初めて自分の不注意に気がつき、名刺を持っていなかったので手帳の紙にR・C・C加藤文太郎と書いてどうかよろしくと言って渡したのです。そのとき窪田氏が「うん」という風にうなずかれたと思います。その夜は福松君が板倉氏の話をしてくれました。それから福松君は昨年三月弘法の下で僕が会ったパーティのなかにおったそうで、あれから後のことや、劒の悪場には自分等がある夏、太い針金を取付けておいたとか、こんどは兵治君が案内するので、それで行けなかったら自分も頑張ってみる等と話しました。
 昭和五年の元旦は霧と雪とで明けました。いつになったら登って行けるのやら。兵治君は無理をすると危険ですぞとよく言ったし、我々案内ですら霧に巻かれると方角がわからず、この小屋の附近で露営したことさえあるんですとも言った。僕が例の斜面の西向の緩い方を辷っていると、土屋、松平、窪田三氏と兵治君がやってきて急な北向きの斜面を辷っておられました。霧が薄くなったとき、代り代りにシネかなんかで他の人等が一緒に辷って下りてくるのを撮影されていました。スキーはどなたも上手でした。土屋氏が松平氏に何々温泉のときよりうんとうまくなったねと言われるのや、東京に帰ったらこれを映写するとき、コンパをやろうじゃないか等の会話が聞えました。それからその谷を北へ渡り尾根に登ってそれを伝い少し東へ行ったところで急に兵治君がやーあそこに兎が寝ているぞと言って小さい谷の中腹を指さしました。見ると、一本の木の根元に雪孔があってそこに兎がいたのです。そこで兵治君が辷って追いかけながら杖を投げたが、当らず、向いの尾根に逃げてしまいました。それを土屋氏が撮影され谷を弘法の方へ渡って、小屋の北側の急斜面で、またみんな熱心にスキーの練習をされました。午後になって霧が晴れ、快晴になったので写真機をとりに小屋に帰ると福松君がこんなときにたくさん写しておきなさい、なにしろ冬の立山だから悪くなったらいつ晴れるか知れないし、いい記念になるんだからと言いました。それで田部氏も土屋氏も大きなカメラを持って出かけられました。僕は水野氏から、同志社の児島氏が正月劔に登られると聞いていたので、今日あたりこられるかも知れぬと思って、桑谷の上まで行ってみました。そして何度か
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