暖自知《れいだんじち》」してもらうより他はないと思います。私はこのころ、真実のことを云おうとすればする程、言葉というものが如何に不完全なものかということを感じて来ました。評論や記事などを書く場合にだけしか言葉というものは役に立たないものだと思いました。)
私の最後の言葉をも一度繰り返したい。「大きく眼を開いてこの時代を見よ」と。真に時代を洞見するならば、もはや人を羨む必要もなく、また我が家の不幸を嘆くにも当らないであろう。時代を見、時代の理解に徹して行ってくれることは、私の心に最も近づいてくれる所以《ゆえん》なのだ、これこそは私に対する最大の供養であると、どうぞお伝え下さい。
この私の切なる叫びが幾分でも妻子の心にとどくならば私は以て瞑します。これ以上何の喜びがありましょう。(このこともまた私の死後機会を見て先生からよく了解の行くようにお話し下さい。今いえばただ私の身勝手に過ぎず、妻子をいたずらにつき放して一人うそぶいているように思われるおそれがありますから。)
そうはいうものの私は心から妻に対して感謝しております。そうして「心からお気の毒であったと思っている」とお伝え下さい。一徹な理想家というものと、たまたま地上で縁を結んだ不幸だとあきらめてもらう他ありません。
平野検事のお心づくしも有難う存じました。先生からどうぞよろしくお伝え下さい。なお同検事は御存知のことと存じますが、私は目下ここの所長さんの御好意によって自由な感想録を書かしていただいています。これは門外永久不出で単に所長さんにだけ読んでいただく、それも私の生前にはお目にかけないということにして御諒解を願っております。従ってそれはただ私のたのしみのために書いているようなものであります。いわば大波の来る前に砂浜の上に書いた文字のようなものであります。ただ私の態度は湖水の静かな水のようにその上を去来する白雲や時には乱雲や鳥の影や、また樹影やらを去来のままに映し来り映し去って行きたいと思っています。世界観あり、哲学あり、宗教観あり、文芸批評あり、時評あり、慨世あり、経綸あり、論策あり、身辺雑感あり、過去の追憶あり、といった有様で、よく読んでいただけば何かの参考にはなろうかと思っております。併しもとよりそれを目的に書いているのではありません。ただこれは先生に私がこんなものを物しているということだけを知っておいていただきたいと存じたまでであります。時世のことについては最早何事も申しません。ただ小生の胸中お察し下さい。
国家のため先生のご自愛のほど祈る念ますます切なるものがあります。
堀川先生はじめ皆様へよろしくお伝え下さい。
昭和十九年七月二十六日
[#地から2字上げ]尾崎秀実
[#地付き]頓首再拝
竹内老先生 玉案下
追白、一番暑熱の必要なこの頃、この涼しさはお米のことが心配になります。
底本:「日本の名随筆 別巻17 遺言」作品社
1992(平成4)年7月25日第1刷発行
底本の親本:「愛情はふる星のごとく」東都書房
1964(昭和39)年10月
入力:渡邉つよし
校正:菅野朋子
2000年11月13日公開
2005年12月14日修正
青空文庫作成ファイル:
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