やうなことゝなるが、實はさうではない。藝術は又一面に於て、何うしても人格の顯はれを隱す譯には行かない。自然界は此人格を通じて表はれて來る。ミレーのものは貴族でも其間に質朴なる百姓の面影を宿し、バンダイクが描くと、百姓でも貴族の風格が備はる。私が米國に留學中に極く纎弱な優美な、恰かもシャンペン酒の看板にでもなりさうな美人の繪を手本にして畫を描いたことがあるが、ブリッヂマンといふ教師はそれを見て、之れならば全然洗濯女である。お前は到底《とて》も此樣な纎弱《デリケート》なものには適しないといはれたことがあるが、何うしても其の人の人格は隱す譯にはゆかぬ。であるから、到底私共には、彼の所謂美人の彫刻をやらうとしてもそれは不可能のことである。唯自然界における何ものにも、最も嚴肅にして深酷なる觀察を下して、私の目に映り來るところの生命を寫すところに美を認めるのである。
で、美人の彫刻と稱せられるものは頗る多い。然しそれは直ちに彼の所謂美人ではない。埃及のルーブルに於ける木彫の「若き女」の如き、最近の佛蘭西のメヨルのものゝ如き、何れも美人として名高いものではあるが、然し見たところで決して其顏は所謂輪廓的の美人ではない。彼の有名な美人彫刻家ロダンなどに至つては殊にさうである。其中年に彫つた「淑女の肖像」といふの丈けは、端麗で閑寂であつて幾分例外の氣味があるが、其他は、最も有名な、「海邊の乙女」でも、「春の神祕《ミステリー・オブ・スプリング》」でも、「ロメヲ・エンド・ヂュリエット」でも、「フランチイスカ・ボール」でも、「接吻《キス》」でも、其題目は非常にデリケートなものであるに拘らず、作物を一貫して何處かに壯大なところ、優美ではなくて壯美の滿ち/\てるものがある。其顏の如きは實に可笑《をか》しなものがあつて、美人とは何うしても受取れぬやうではあるが、それでも何處とはなしに美人としての傑作たるを許さぬことが出來ないやうに出來てる。であるから彫刻家の目には、世間にいふ絶世の美人も、苫屋の海婦も同じに映つて來る。唯其精神、其内容が如何に深酷に寫されてるか否やに於て、始めて美醜の區別が生じて來るのである。觀音樣といひ辨天樣といひ、ヴィナスといひ、それが名打《なうて》な傑作であるといふ以上には、必ず曲線や、慈愛に富んでる微笑が、如何にも生き/\して命あるものであらねばならぬ。であるから、彫刻家
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