の比喩《ひゆ》を楽しむことができるのである。
 しかしながら、道教がアジア人の生活に対してなしたおもな貢献は美学の領域であった。シナの歴史家は道教のことを常に「処世術」と呼んでいる、というのは道教は現在を――われら自身を取り扱うものであるから。われらこそ神と自然の相会うところ、きのうとあすの分かれるところである。「現在」は移動する「無窮」である。「相対性」の合法な活動範囲である。「相対性」は「安排」を求める。「安排」は「術」である。人生の術はわれらの環境に対して絶えず安排するにある。道教は浮世をこんなものだとあきらめて、儒教徒や仏教徒とは異なって、この憂《う》き世の中にも美を見いだそうと努めている。宋代《そうだい》のたとえ話に「三人の酢を味わう者」というのがあるが、三教義の傾向を実に立派に説明している。昔、釈迦牟尼《しゃかむに》、孔子、老子が人生の象徴|酢瓶《すがめ》の前に立って、おのおの指をつけてそれを味わった。実際的な孔子はそれが酸《す》いと知り、仏陀《ぶっだ》はそれを苦《にが》いと呼び、老子はそれを甘いと言った。
 道教徒は主張した。もしだれもかれも皆が統一を保つようにするならば
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