生虫を相手に争ったり、霜を恐れたり、芽の出ようがおそい時は心配し、葉に光沢が出て来ると有頂天になって喜ぶ様子をうかがっているのは楽しいものである。東洋では花卉《かき》栽培の道は非常に古いものであって、詩人の嗜好《しこう》とその愛好する花卉はしばしば物語や歌にしるされている。唐宋《とうそう》の時代には陶器術の発達に伴なって、花卉を入れる驚くべき器が作られたということである。といっても植木鉢ではなく宝石をちりばめた御殿であった。花ごとに仕える特使が派遣せられ、兎《うさぎ》の毛で作ったやわらかい刷毛《はけ》でその葉を洗うのであった。牡丹《ぼたん》は、盛装した美しい侍女が水を与うべきもの、寒梅は青い顔をしてほっそりとした修道僧が水をやるべきものと書いた本がある。日本で、足利《あしかが》時代に作られた「鉢《はち》の木」という最も通俗な能の舞は、貧困な武士がある寒夜に炉に焚《た》く薪《まき》がないので、旅僧を歓待するために、だいじに育てた鉢の木を切るという話に基づいて書いたものである。その僧とは実はわが物語のハルンアルラシッド(三一)ともいうべき北条時頼《ほうじょうときより》にほかならなかった。そしてその犠牲に対しては報酬なしではなかった。この舞は現今でも必ず東京の観客の涙を誘うものである。
か弱い花を保護するためには、非常な警戒をしたものであった。唐の玄宗《げんそう》皇帝は、鳥を近づけないために花園の樹枝に小さい金の鈴をかけておいた。春の日に宮廷の楽人を率いていで、美しい音楽で花を喜ばせたのも彼であった。わが国のアーサー王物語の主人公ともいうべき、義経《よしつね》の書いたものだという伝説のある、奇妙な高札が日本のある寺院(須磨寺《すまでら》)に現存している。それはある不思議な梅の木を保護するために掲げられた掲示であって、尚武《しょうぶ》時代のすごいおかしみをもってわれらの心に訴える。梅花の美しさを述べた後「一枝を伐《き》らば一指を剪《き》るべし。」という文が書いてある。花をむやみに切り捨てたり、美術品をばだいなしにする者どもに対しては、今日においてもこういう法律が願わくは実施せられよかしと思う。
しかし鉢植《はちう》えの花の場合でさえ、人間の勝手気ままな事が感ぜられる気がする。何ゆえに花をそのふるさとから連れ出して、知らぬ他郷に咲かせようとするのであるか。それは小鳥を籠《
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