、幾んど之なきやうなるに、益※[#二の字点、1−2−22]安心したりき。醉夢がうと/\眠れる間に、長男をつれて、野獸園を訪へり。十數頭の鹿を飼ふ。茶亭に就いて、手を叩けば、あちこちより露はれ來たる。菓子を投ずれば、優者獨占して食ふ。弱者恐れて近づかず。近づくも、優者に角を向けられて、のそ/\退却するもあはれ也。
 再宿す。昨夜酒を求めしに、品切れなりといふ。二十年來、晩酌せざる日とては無き身に取りては、大いに物足らぬ心地したりき。今宵も品切れ也。友は病む。我も亦一種の病人也。
 醉夢の病は、幸にも一夜にして癒えたり。新學士に送られて、清澄山を去れり。安房第一の大刹、もとは天台宗、今は眞言宗なるが、日蓮の學びし處、又其日蓮が朝日に向ひて始めて南無妙法蓮華經を唱へ出したる處とて、日蓮宗の信徒の參詣する者多く、山門の側に祖師堂さへ出來居れり。農科大學の植林も盛んにして、樹木しげり、峯容秀拔、眺望もよく、げに房州第一の靈山、堂前老杉の偉大なること、天下有數也。

        五 暴風雨の一夜

天津より勝浦まで馬車に乘る。小湊を過ぐれば、『おせん轉ばし』の險あり。一路、海に臨める懸崖の中腹に通ず。馬若し一歩を誤らば、命はそれ切り也。雨いたり、風さへ強きに、一層心細く感じたりき。
 勝浦より汽車に乘り、大東に下り、大東岬に至る。風益※[#二の字点、1−2−22]甚だし。雨は止みたるが、陰雲漠々、九十九里の濱は見えざりき。この大東の濱邊に筆草生ふと聞きつるまゝに、注意して見たれど、それらしく思はるゝものは見當らざりき。
 大東に引返し、汽車に乘り、一ノ宮に下る。夜既に八時を過ぎたり。海水浴場まで船を雇はむとせしに、波高ければとて、船を出さず。闇中を摸索しつゝ徒歩して、漸く一旅館に投ず。今宵は酒あり。されど風益※[#二の字点、1−2−22]甚しく、大雨加はり、松林叫び、海濤咆哮し、戸鳴り、家動く。惡魔の窟に入りたらむ心地して、世にも不愉快なる一夜なりき。
 翌朝風雨なほ止まず、雨戸を開くべからず。陰鬱慘凄、益※[#二の字点、1−2−22]以て惡魔の窟也。長男又腹痛を起す。されど醉夢ほどには非ず。穩臥靜養して行かずやと云へば、宿屋よりは自家がとて、まだ子供氣の家が戀しく、大雨を衝き、尻に帆かけて、逃ぐるが如くに立ち出づ。宮川の海に入る處、川に小船を浮ぶべく、砂丘偉大にして松林も偉大也。雨と風となくば、如何ばかり心ゆく處ならむを。[#地から1字上げ](大正五年)



底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
入力:H.YAM
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年11月28日作成
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