。最も左なるが鳩巣の墓にて、次が其妻の墓、次の二墓が、鳩巣の子の勿軒夫妻の墓也。鳩巣は新井白石と學友たり。而して白石は才を以て働き、鳩巣は徳を以て立てり。殊に鳩巣に偉とすべきは、赤穗義人録を著はしたること也。赤穗四十七士が君讐を報じて間もなき程にて群議紛々として是非一定せざりしに、一たびこの義人録出でて、天下の公論始めて定まれり。水戸義公の湊川の碑、鳩巣の義人録、これ當時好一對の美事也。
鳩巣の墓の南に接して柴野氏の墓地あり。その中に栗山の墓あり。またその南は尾藤氏の墓地、二州の墓あり。またその南は古賀氏の墓地、精里の墓あり。其子※[#「にんべん+同」、第3水準1−14−23]庵の墓もあり。※[#「にんべん+同」、第3水準1−14−23]庵の子茶溪の墓もあり。茶溪までは、三代相つぎしが、茶溪は明治十七年に死して、まだに木標のみにて石塔が立ち居らず。鳩巣より始めて、墓地はだん/″\南に開けたり。而して墓もだん/″\大きくなれり。即ち精里父子の墓最も大にして、鳩巣の墓最も小也。岡田寒泉の墓は、栗山の墓の前方、雜木草莽の中に孤立す。よく/\注意せずば、見おとすべし。栗山、二州、精里は、寛政の三博士と呼ばれたる巨儒也。この際、學政の上には、林述齋といふ林家中興の英傑あり。政治の上には、松平樂翁といふ賢相あり。儒教の最も盛なりし時代にして、今日存する聖堂は、この際の建築に係れるもの也。寒泉も栗山と同じく儒官にして、好評ありしが、二州、精里と入れちがひに、出でて代官となり、治績大いに擧れり。當年の一人材也。
鳩巣は亨保十九年に七十七歳にて逝けり。寒泉は、其れより後七十三年、文化四年に、七十一歳にて逝けり。栗山も同じ年に七十四歳にて逝けり。二州は文化十年に六十九歳にて逝けり。精里は文化十二年に六十八歳にて逝けり。何れもみな學者といふ者は、長壽也。
儒者棄場とは、學者を侮辱したるやうに聞ゆれど、儒學盛なるにつれて、儒葬行はれ、其儒葬のさまが、普通の葬式とは異なりて、餘りに無造作にて、俗眼には、たゞ死人を棄てに行くやうに見えしかば、世俗は世俗通りに解釋して、棄場とは云ひける也。
[#地から1字上げ](明治四十三年)
底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
1922(大正11)年7月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5
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