すること、やゝしばし、『着るに布團なく、食ふに物なきを承知ならば、やどられよ』とて、われらを一室に導きぬ。ふすまを見れば、梁川星巖の詩が書かれたり。その詩に曰く、
[#ここから2字下げ]
流丹萬丈削[#二]芙蓉[#一]。寺在[#二]磅※[#「石+溏のつくり」、219−9]第幾重[#一]。卷[#レ]地黒風來[#二]海角[#一]。有[#レ]時微雨變[#二]山容[#一]。
三千世界歸[#二]孤掌[#一]。五百仙人共一峯。怪得殘雲挾[#二]腥氣[#一]。老僧夜降石潭龍。
[#ここで字下げ終わり]
五 富山
朝、起き出でて、寺の庭より眺むるに、東京灣を見下し、更に外洋に及ぶ。洲ノ崎も見え、大武岬も見ゆ。烟を吐く大島も見ゆ。庭に石あり、龜に似たり。龜石と名づく。かれこれする程に、六時になりければ、寺を辭し、五百の石羅漢を顧みつゝ、上りて十州眺望臺にいたる。昨日の朝の雨にひきかへて、今日は晴天也。脚下に關八州を見わたして、快甚だし。
下りて、天然の石をそのまゝに刻みたる大佛を見上げ、なほ下りて海岸に出でて、猫石を見る。前夜の茅店に至りて提燈をかへし、午食す。生駒氏は、昨夜、山路によわり、『下らむ』と云ひしが、さま/″\に勵まして、漸く寺までつれゆきたり。今日は、歩くがいやなりとて、保田より汽船に乘らむとせしが、二番船出でずといふに、已むを得ず、われらと共に歩きぬ。吉濱、勝山《かちやま》を經て、檢儀谷原といふ處にいたりて、終に袂を分つ。生駒氏は、直ちに沼村にかへらむとする也。われら二人は、迂路して、富山を攀ぢむとする也。
富山、犬掛、瀧田、白濱、神餘、洲ノ崎の名前は、八犬傳によりて、夙に我耳に熟せり。われ想像すらく、富山は、八犬傳にしるしゝが如くならずとも、孤立せずして、峯巒かさなるべし、樹木が繁かるべし、大ならずとも、谷川はあるべしと。現に見てその意外なるに驚きぬ。われ二部村より富山に上りて合戸村に下りぬ。上下、あはせて、一里に過ぎず。孤立せる山也、樹木なき山也。谷川らしきものは、一つもなき山也。頂上、二つにわかれ、一は高く、一は低し。高きを金比羅山といふ。測量の三角點あり。四方の眺望開けたり。安房一國を脚下に見下す。東西南の三方は、遠く海を望む。北に當りて、伊豫ヶ嶽、山骨を露はして、大鵬の將に飛ばむとするが如し。低きを觀音山といふ。觀音堂あり。全山の中たゞこゝのみに、少しばかり木立あり、井戸さへありて、人住めり。この山、高さわづかに千餘尺なるも、房總の間にては、高山のうち也。館山灣より北にあたりて、眼に見ゆる群山の中にて、最も高く、頂上のとがりて見ゆるは、即ち、この富山なり。
犬掛、瀧田、北條、館山を經て、沼村の宿にかへりしは、夜の十一時なりき。
六 人力車との競爭
余等は、今房州を去らむとする也。
瀬戸、生駒二氏は、汽船にて、直ちに東京にかへらむとす。他の八人は、木更津まで陸行し、鋸山に一泊し、鹿野山にも、亦一泊せむとする也。その八人の中にても、車にのるもの二人、盟主の佐々木高美氏と中村久弘氏と也。あとの六人は徒歩す。徒歩するものも、亦二組にわかる。佐々木高志氏、伊藤正弘氏、千頭直雄氏、中村岩馬氏は、先づ發す。藤井久萬三氏と余とは、人力車と同時に發す。余等二人は、ひそかに脚力の強きを恃める也。
午前六時半、四人の徒歩組は先づ發しぬ。九時に至りて、人力、徒歩の混成隊も發しぬ。二人の汽船組は、やがて後より發する也。
路を那古に取り、木根峠を越え、勝山、保田を經て、鋸山に上らむとす。われら二人、時には人車に先んじ、時にはおくる。菅笠を戴き、絲楯を負ふ。學生とは見えぬ風體也。車夫、佐々木氏にさゝやきて曰く、『旦那樣のおつれは、東京の人が東京にかへるにはあらで、田舍の人が東京へ上るやうなり』と。
午後四時頃、鋸山の入口に達し、こゝにて、佐々木氏も、中村氏も、人力車より下りて徒歩す。上ること八町にして、日本寺に達す。これ前日余等三人の來り宿せし所也。
七 鹿野山
あくる朝、寺を辭して山を下り、旅店について朝食し、一同つれだちて歩みぬ。路は海に沿ふ。金谷を過ぎて、竹岡に至るまでの間、浪最もあらし、その巖に碎けて散るさま、甚だ壯觀也。
湊川をわたり、湊村より右折し、和合地を經て、鬼涙山を攀ぢ、終に鹿野山に達す。この山、高さ千五百尺、これが房總第一の高山也。品川より海をへだてて、總房の方を見わたすに、山最も大にして高く見ゆるは、即ちこの鹿野山也。丸屋といふに投宿す。
日くるゝには、まだ程あれば、出でて散歩す。山頂は二段になりて平かに、東西に長し。宿屋は上の段に集まれり。こゝを上町と稱す。東にゆけば、上町の盡きむとする處に、宏壯なる寺あり。神野寺といふ。傳ふこれ聖徳太子の草創にし
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
大町 桂月 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング