したることは知られつ。
淋漓たる汗を靈泉にあらひ去りて、われ獨り樓上に坐す。樓は山腹に倚りて、勢、飛ばむと欲す。眼下には、神流川溶々として流れ、川のかなたは數町の田をあまして、御嶽の連山逶※[#「二点しんにょう+施のつくり」、第3水準1−92−52]として横はる。連山のつくる處は、曠原遠く開け、そのはてには、赤城、日光の山々、白雲の中に隱見す。奇なりとにはあらねど、眼さむる眸めなり。やがてわが居る山の影、夕日に長く川のかなたまで及ぶばかりとなりぬ。大鵬の如き黒雲、御嶽の一角を壓して現はれしが、忽ち一天に瀰漫して、こなたに向つて走るよと見るほどに、白雨はやくも珠を躍らし、風に隨ひ、亂れてわれを撲つ。見渡すかぎり、恰も一幅の墨繪の如く、三伏のあつさもこの一雨に洗はれて、萬斛の凉味、乾坤に溢る。われはたゞ一種異樣の感にうたれ、われ我を忘れて枯坐しけるに、雨脚はやう/\我に遠ざかりて、軒より直下する點滴、水晶簾を下して、雨の名殘をとゞめ、空は早くも瑠璃をみがきて、一痕の凉月、御嶽の上にさやかなり。
朝四時、眼さめて眠られぬまゝに、殘月を履みて程に上り、八時頃新町に來り、停車場前の旗亭に入りて、あさげをものす。家の娘にやあらむ、まめ/\しくたちはたらくさまの可愛らしきが、一目眇して、よそのみる目も心苦し。ふと見上ぐる神棚の上に、一個の達摩の片目を白盡せるは、子故に祈る親心のやみにや。東京上りの汽車つきければ、たち立でて、汽車に乘りけるに、かの少女きたりて、忘れ物とて、さし出すを見れば、八鹽のいでゆにて我におくりたる團扇なり。凉しさならずして、何に忘れたる團扇ぞや。[#地から1字上げ](明治三十一年)
底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
1922(大正11)年7月9日発行
入力:H.YAM
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年8月26日作成
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