藍色にて下戸不[#レ]知[#レ]藥の五字が書かれたり。これを呉れよといふに、余はよし/\とうなづく。來城飮みほして、下におかむとすれば、道別忽ち、裏にも何か書いてあるといふ。ひつくりかへせば、果して上戸不[#レ]知[#レ]毒の五字あり。二句相呼應して、まことに面白き文句なりと一同覺えず破顏す。この杯、一種の興を添へて、また飮みしが、所謂毒を知らざるほどには飮まず。道別先づ眠る。余も眠る。來城も眠る。われ眼をさませば、二人既に起きて、火鉢を擁して、面白さうに談話す。どれや、今一酌と例の杯をとり出して飮む。細君、あれは、どうなさると心配さうな顏するを、來城きゝつけて、何事ぞと問ふ。昨日中に起草すべき約あり、されど、久し振にて、君が來れるに、それと斷りかねて、執筆をのばしたるなりと實を吐けば、來城怒つて、聲をあらゝげ、そは決して延ばすべきことに非す。われには唯※[#二の字点、1−2−22]酒をあてがはば、細君や子供を相手に、面白く飮むべきに、我れを遇することをつとめて、本職の執筆の約を破るとは何事ぞやといふ。君の言大いに好し、われ過てり、われは情もろく、氣弱く、人を見れば、たゞ氣の毒が先に立ち、よろづ己れに克つ能はず、宋襄の仁、尾生の信、竟に大仁大信なる能はずといへば、道別傍らより、然し來城君、その短所は、一方に於て、大町君の美を爲すなりといふ。細君は來城を顧みて、にこ/\す。われとわが短處を矯めむとすれど、人に逢へば、氣の毒が先に立ちて、意志忽ちにぶる。酒もひとりにて飮めば、味なし。未だ曾て微醉の度を過したることなし。酒客と共にすれば、味あり。興に乘じて、覺えず飮み過す。啻に酒のみならず、萬事此の如し。筆を以て世に立つ以上は、書を讀み文を作るが、第一のつとめ也。この務めを果さむには、意志をつよくして、少しは人につらく當らざるべからず。これ積極的方法なりとは知れど、修養未だ足らず、惰性に不快を感ず。已むを[#「已むを」は底本では「巳むを」]得ず、消極的方法を取り、山林の外に退きて、書と筆とに親しむの外なし。八九年以前、本郷に住みし頃は、執筆に忙しき時は、心ならずも留守をつかひしことありき。既にして以爲へらく、これ人の道に非ずとて、留守をつかふ代りに俗交をさけて、遠く西郊に移りしが、電車通じては、西郊もやはり都也。虚名久しきに及びて、俗累益※[#二の字点、1−2−22]多し
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