雨の音を聞く。ことことと鍋の動く音をも聞く。雨が動かすに非ず。風が動かすにも非ず。熊にや、狐にや、狸にや。嘉助氏咳して、目覚めておる様子なれば、問いて見たるに、木鼠《りす》なりといえり。うとうとして、三時半目を開きしに、樹影天幕に映れり。うれしや、雨止みて、月出でたる也。
 次の日も渓の中を行くに、渓の幅次第に広く、水次第に多し。幣の滝を下り、二、三十人を立たしむべき磐石の上に立ちて、滝を見上ぐ。十丈もあらむ。飛沫日光に映じて、虹を現わす。瀑の左に直立せる絶壁の面に穴多く、岩燕出入して、虹の中に舞えり。渓ますます広し。虎杖《いたどり》人より高く、蕗《ふき》も人より高し。おりおり川鳥ききと鳴きて、水面を掠《かす》む。雀を二倍したる位の大《おおい》さにて、羽の色黒し。この鳥陸上に食を得る能わず。さればとて、水掻《みずかき》なければ、水にも浮べず。木にとまらずして、巌にとまり、横に渓上を飛び、魚を見ては、水中にもぐり込む也。二見の瀑を下りて顧《かえりみ》れば、二段になりて、上段は一丈、下段は三丈もあらむ。幣の滝より低けれども、水量多くして、勢壮也。
 およそ四時間にして、渓中を出でたり。蝦夷松の林開けて、瓢沼、瓢の形を成す。毛氈苔《もうせんごけ》一面に生いて、石を踏み尽したる足の快さ言わん方なし。岸に近く、浮草にすがりて、一羽の蜻※[#「虫+廷」、第4水準2−87−52]《とんぼ》の尾を水面に上下するを見る。卵を生むにや。試《こころみ》に杖にて追いて見たるに、逃げむともせず。子孫のために、己れの命を顧みざる也。
 天神峠に至りて見下せば、絶壁直立すること、千尺にも余れり。これを下るかと思えば、心自ら悸《とどろ》きしが、熊笹や灌木を攫《つか》みて、後向きになれば、下られざるにもあらず。半頃より左に近く羽衣の滝を見る。下りて見上ぐれば、高い哉《かな》。八十丈と称す。直下せずして、曲折するが、日光の華厳《けごん》滝よりは遥《はるか》に高き也。この滝の水、落ちて間もなく、忠別川に入る。川に沿い、数町下りて、松山温泉に投ず。忠別峡中の一軒屋也。ここより旭川までは、一日の行程也。幾度も忠別川を徒渉せざるべからざるが、ともかくも道路あり。旭川まで歩かずとも、美瑛《びえい》駅に至れば、汽車の便ある也。松山温泉より旭岳に登るには、人の踏み付けたる跡あるのみにて、道路なく、大部分は渓水の中を
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