て行けるやうにならば、いつでも旅行せよと云ひきかし、その代りに水泳を學ばしめたり。水泳の出來ることは、旅行家の一資格也。秋に入りて、近郊の遠足を思ひたち、長男と次男とをつれてゆく。
新宿驛より汽車に乘り。國分寺驛にて乘りかへて、東村山驛に下る。徳藏寺に、元弘戰死碑を見る。これ新田義貞に從つて戰死せしこの地の豪族の石碑にして、五百年前のものなりと言ひきかす。狹山に上り、荒幡の新富士の上にいたる。これ富士信仰の村民が、七年の久しきにかけて、氣長く築きあげたるもの也。關八州は寸眸の中に收まる。秩父の群峯や、大山の連山や、富士山や、みな見えたり。東京は、遙に煙突の煙にあらはる。筑波はあのあたり、日光はあのあたりと説明す。この壯觀を肴に、親子三人、絲楯の上に團欒して、握飯を食ふ。酒なく、茶なく、湯も水もなし。一袋の白砂糖を相分つ。白砂糖にて握飯を食へば、湯水なくとも、喉かわくことなしといふことを、書物の上にて知り、實驗しても知り、それを今兒等にも實地に知らさんとする也。
山口村さして下る。山上雜木林の中に、長さ四五寸の草の、形は土筆と福壽草とに似たるが、全體純白にて簇生せるを見る。兒等めづらしがりて、之を掘る。みな其名を知らず。水晶草とでも名を附けようと云ひ居る處へ、十歳ばかりの村童一人ぶら/\來たる。これは何といふ草にかと問へば、笑つて名を言はず。そんなものを東京へ持つて行つたら、笑はれちやアといふ。思ふに、あの邊りには多くして、村童には珍らしくも何ともなかるべし[#「何ともなかるべし」は底本では「何となもかるべし」]。それがまた我兒には珍らしき也。
勝樂寺、横田諸村を經て、拜島驛にいたり、汽車に乘りて、羽村驛に下る。數町にして多摩川畔に出づ。こゝに壯大なる堰あり、羽村の堰といふ。實に玉川上水の入口也。東京に住むものはこの堰を知らざるべからずとて、茲に伴ひたる也。
驛に戻れば、午後六時、發車までには、一時間を餘す。腹もへりたるべしとて、一亭に入りて、腰かけて晩食す。肴一品の晩食なら、必ず三十錢以下なるべしと思ひしに、四十錢づゝにて、豫算がくるひたり。二兒には、新宿までの切符を買ひたり。余は漸く立川までの切符を買ふことを得たり。立川より東京までは、七八里、歩いてもよしと思ひしが、たかの知れた汽車賃と思ひかへして、大久保驛まで來て降る。驛長とは、相知る仲なれば、不足の賃金
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