》川を過ぎ、右手に海を見るに及びて、頓に目覺むる心地す。顧みれば、空一面に赤く、恰も遠方の火事の如し。されど火事には非ず。さすがは東京なり。滿都の電燈の光、七八里隔たりても、斯ばかり明かに見ゆる也。行手は唯※[#二の字点、1−2−22]眞つくらにて、千葉の所謂『光』は見えざれども、最早遠からず。裸男少年に向つて、『これから千葉まで走らずや』と云へば、『走らむ』といふ。さらばとて、共に走る。凡そ十町ばかりも走りけむ、『先生やめて下され。さつき走りし疲れもあれば、もう走れず』といふに、走ることを止めて、殿軍と一所になり、千葉の町に入りて、定めたる旅店に著きしは、恰も午前四時、最先着者より後るゝこと二時間也。
朝食の後、裸男演説して、一同ひと先づ解散す。更に幹部、其他の有志と共に千葉中學校に至りて演説す。師範學校の生徒も來り聽けり。千葉中學校の校長は海鹽欽衛といふ人也。我等の爲に導をなして猪鼻臺に上る。千葉氏代々の城址にして、千葉第一の遊覽地、老松參差として、千葉の市街に俯す。東京灣※[#「水/(水+水)」、第3水準1−86−86]茫として盡くる所を知らず。富士山は霞にかくれ、鹿野山は淡く横はる。殊に海に近くして、洲渚漁村のさま、人をして目幾んど應接に遑あらざらしむ。
停車場までも、校長に送られて、千葉を辭す。雨至る。中山にて他の幹部の人々とも別れて、一平氏、甥の政隆、長男、次男、裸男、都合五人、汽車を下り、先づ驛前の一亭に午食し、それより法華經寺に詣で、更に市川の桃を見て、市川より電車に乘れり。
法華經寺は、富木播磨守常忍の開基、日蓮上人の開山に係れる大伽藍、日蓮上人最初轉法輪の道場、本堂宏大にして五重塔もあり。六百年前の建築そのまゝに殘れるもあり。名だゝる泣銀杏、老いて大也。附近の桃林、なほ花を帶びたり。境内には櫻花咲き滿つ。雨に一層の幽趣加はりて、げに浮世の外の清淨界の心地したりき。
中山と市川との間は、桃幾んど連續せるが、八幡宮のあたりは途絶えたり。この祠の前、千葉街道に接して、凡そ二十間四方の竹藪あり。これ八幡の八幡不知とて有名なるもの也。一説に曰く、古き墓ならむと。又一説に曰く、此地行徳の入會地《いりあひち》にて、八幡村民妄りに入るべかざるを以て、八幡不知と名づけたりと。裸男は前説を取らむとするもの也。[#地から1字上げ](大正五年)
底本:「桂
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