、林下寂として人なし。花は已に滿開なれど、月光おぼろなれば、一望たゞ白模糊たるを見る。晝間はいぶせき茅屋も、梅花にうづもれて、夜色の中に縹渺たるさま、えも言はず。すべて見苦しきものは掩ひつくされて、香氣獨り高く、骨までもしみ通るかと疑はる。われ此景に對して、また言ふ所を知らず。遂に堪へ兼ねて、一枝を手折りて歸る。
 春まだ淺き夜寒の風に、醉もさめたれば、また麥酒のみて眠に就く。折り來りし梅枝は枕頭に在り。脈々たる幽香に護られて、醉夢いづくにか迷ひけむ、窓に近き鶯聲の綿蠻たるに驚けば、日は已に梅林の梢に昇りぬ。名殘は盡きねど、宿を辭して、八幡祠後の山に上る。一村眼下に在り。梅は茅屋の間に點綴す。左に本牧岬を望み、右に觀音崎を望み、房州の山、天邊に寸碧を※[#「てへん+施のつくり」、第3水準1−84−74]く。東風のどかにして、海波熨するが如く、布帆みな坐するが如し。路の兩側に茶店あり。右よりは三十餘りの年増、左よりは十七八の少女出で來りて、休んで行けといふ。左に休まば、年増は失望せむ。右に休まば、少女は失望せむ。遂にいづれにも休息せずして下る。
 杉田に滑川といふ小流あり。當年の青砥藤綱の領地、もと此に在り。その五文の錢を拾ひしは、鎌倉の滑川にあらずして、こゝの滑川なりと案内の童にそゝのかされて、行いて見しに、川身に直徑八寸ばかりなる圓き穴五つあり。これむかし落ちたる錢の痕の、年を經て大くなりたるなりといふに、覺えず噴飯せしは、早や已に十年前の一夢となりぬ。その錢痕、今なほ存するや、存せざるや、知らず。
 朝まだ早ければ、遊人未だ出でず、香氣獨り山海の間に滿てり。されど、われは竟にこの香世界を去らざるべからず。命あらば、また來年の春にとて、歸路に就く。憶ふ昔、佐藤一齋の杉田觀梅記に感服のあまり、頓に遊意を催して、夜八時都を出で、明方杉田に着し、その日また直ちに歸路に就き、一晝夜を全く徒歩して辭せざるまでに思ひこがれたる地なれど、前後こゝに遊びし友、一半は渭樹秦雲と隔たり、一半は幽明界を異にす。こゝに遊ぶにつれて、また恨みなき能はず。獨り梅花は舊に依りて東風に笑ひ、われ亦舊の如く江湖の窮措大なり。嗚呼既往十年の事、恥あり恨あり涙あり。苦しき憂世にたつき求むとて、心にもあらぬ事を忍びたるも幾度ぞや。よしや塵には汚れたりとも、もとの心は、花ぞ知るらむ。さらでだに分ち難き袂に
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