たり。親房の子顕家、鎮守府将軍となりて陸奥に至りし時、親朝は評定衆、兼引付頭人となりて国政に参与したり。後に下野守護となり、大蔵権大輔となり、従四位を授けられ、修理権太夫にまでも進めり。思ふに関東の一大豪族、武略と共に材能もありて、当時有数の人材也。然《しか》るに、南風競はず、北朝の勢、益々隆んなるに及び、父の遺言を反古《ほご》にし、半生の忠節に泥を塗りて、終《つい》に賊に附したり。関城書は、親房が関城に孤立せし際、親朝がまだ形勢を観望せるに当り、大義を説きて、その心を飜《ひるが》へさむとせしもの也。辞意痛切、所謂《いわゆる》懦夫《だふ》を起たしむるの概あり。然れども、親朝の腐れたる心には、馬耳に東風、城陥りて、親房の雄志終に伸びず。名文空しく万古に存す。
 当年の関城主は誰ぞや。関宗祐、宗政父子也。延元三年、親房は宗良親王を奉じて東下せしに、颶風《つむじかぜ》に遭ひて、一行の船四散し、親房は常陸に漂着し、ひと先づ小田城に入る。然るに城主小田治久賊に心を寄せければ、関城に移れり。宗祐は無二の忠臣也。親房を奉じて忠節を尽せり。当時、関東は幾《ほと》んどすべて賊に附して、結城親朝さへ心を飜しぬ。唯々宗祐の関城を根拠として、伊佐城主の伊達行親、真壁城主の真壁幹重、大宝城主の下妻政泰、駒城主の中御門実寛だけが南朝に属せしが、興国四年十一月、高師冬大挙して来り攻むるに及び、大宝城陥りて政泰討死し、関城も陥りて宗祐父子討死し、親房は吉野に走れり。これより関東全く北朝に帰するに至りぬ。
 大宝沼の北端、三方水に囲まれたる丘上は、これ関城の趾也。沼に臨みて宗祐父子の墓あり。関城の碑も立てり。大宝沼は城趾の両側を挟さんで、遠く南に延び、その尽くる処を知らず、東の方二三里を隔てて、筑波の積翠《せきすい》を天半に仰ぐ。風光の美、既に人をして去る能《あた》はざらしむるに、忠魂長く留まれる処、山河更に威霊を添ふるを覚ゆ。茫々五百年、恩讐|両《ふた》つながら存せず。苦節ひとり万古にかをる。明治の世になりて、宗祐は正四位を贈られ、宗政は従四位を贈らる。地下の枯骨、茲《ここ》に聖恩に沽《か》へる也。

 二 筑波登山
路傍の草中に、蛙の悲鳴するを聞く。蛇が蛙を呑み居るならん。助けてやれとて、石をなぐれば、蛙をくはへたる蛇あらはれて逃げゆく。木の枝を折り取りて蛇を打てば、蛇弱りて、蛙飛び去る。今一打
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